ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズ「おんな友達との会話」。
3人目のゲストは、昭和・平成・令和を貫き、音楽評論家として第一線で活躍を続ける湯川れい子さん。昨年、BABYMETALをめぐるX(旧ツイッター)への投稿で話題を呼んだ湯川・近田の両名は、実は半世紀以上も前から縁のある仲であった。
「その場で英語の歌詞をつけてくれ、と頼まれて…」(湯川)
近田 湯川さんといえば、音楽評論家としてのみならず、作詞家としての業績にも多大なるものがあります。最初に作詞を手がけた作品は、どの曲になるんですか。
湯川 1965年に発売されたエミー・ジャクソンの「涙の太陽」ですね。
近田 あのシングルでは、作詞のクレジットは「R.H.Rivers」とされています。後に、Hot River=湯川のもじりで、正体は湯川さんだったことが判明するわけですが、どういった経緯で、作詞の仕事が舞い込んだんでしょうか。
湯川 当時、私がDJを務めていたラジオ関東(現・ラジオ日本)の「ゴールデン・ヒット・パレード」という番組のディレクターから、府中にあった米軍ハウスに呼び出されたんですよ。
近田 米軍ハウスというのは、戦後に日本に駐留したアメリカの軍人のために建てられた一戸建て住宅が払い下げられた物件のことですね。
湯川 はい。そこには、当時作曲家の中島安敏さんが住んでいらしたんです。何でも、「ゴールデン・ヒット・パレード」で私のアシスタントDJについていた深津エミさんが歌が上手いから、レコードを吹き込むことになったと。ちょうど今、中島さんが曲を作ったから、それに、英語の歌詞をつけてくれって言われて。
近田 その場で?
湯川 ええ。30分ぐらいで、何とか苦し紛れに英語の詞をくっつけましたよ。まあ、エミさん本人が横須賀で育った英国人のクオーターで英語が達者でしたから、おかしなところがあったらエミに直してもらってと言い残して、帰ってきました。
近田 そんな風に即席で作った曲が、大ヒットしちゃったんですね。
湯川 ええ。70万枚ほど売り上げたらしいです。気がついたら、エミはエミー・ジャクソンという外国人シンガー風の名前を名乗っていたし、私の名前もR.H.Riversに変わっていましたけど。
近田 当時の僕は、すっかり洋楽だとばかり信じ込んでいましたよ。今思えば、あれは、レコード会社の洋楽レーベルが送り出した「和製ポップス」の一環だったわけですね。邦楽のレーベルは専属作家制に縛られていたけれど、便宜上、洋楽という隠れ蓑をかぶれば、比較的自由な楽曲制作を行うことができた。
湯川 はい。あのレコードは、日本コロムビアの洋楽部門のCBSからリリースされていましたからね。
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- 文=下井草 秀
写真=平松市聖 - keyword
