主人公2人はともに180cm超え…今作の「キャスティングの妙」

 本作における最大のギミックであり、映画版の映像表現での白眉は、競技ダンス特有の「リード(伝統的には男性が担う役)」と「フォロー(伝統的には女性が担う役)」の役割の入れ替えです。

 競技ダンスは、世界で最も「男はリードし、女はフォローする」というジェンダーロールが固定された競技の一つ。男性である二人はそもそも、「リード」側の人間です。観客も魅力的な男女の物語を期待してしまうし、パフォーマンスする側もそれを過剰に表現する。

 しかし、杉木と鈴木はこの境界を軽やかに、かつ暴力的なまでの美しさで踏み越えていくのです。カメラは、本来「支配する側」であるはずの王者が、相手に身を委ね、フォローに回った瞬間の「表情の綻び」を執拗に捉えています。

 ラテンダンスにおいて、プライドの高い杉木が鈴木の野性味溢れるリードに導かれ、自らの重心を預けるそのとき。彼の肉体は「支配する苦悩」から解放され、相手の意志をダイレクトに受容する快楽を知るのです。

 逆に、スタンダードダンスにおいて鈴木が杉木の冷徹なまでに完璧なリードに従うとき、彼は自分の中に眠っていた「秩序への服従」という未知の快感に震えている。

 劇中では、トレーニングという名目のもと役割のシャッフルがなされますが、このシャッフルは単なる技術訓練の範疇を大きく超えています。それは、男女的な役割や固定概念を打ち砕き、相手の視点に立ち、相手の痛みを、相手の歓喜を、自らの肉体で再現する「究極の共感」といえるでしょう。

 お互い男として相手を支配し、征服し、服従させたくとも、二人でフィットするダンスをするためには、どちらかが必ず身を預ける必要がある。そして逆転した際には、そちら側の喜びも感じてしまう。

 さらに相手の微妙な動きやサイン、汗や呼吸、視線の交錯、相手に対する感情など非言語のコミュニケーションをとりながら(ダンスそのものが恋愛の言語!)お互いを知っていくうちに、二人のダンスは完璧に噛み合い、理想的な境地へと至っていきます。

 それぞれを縛っていた役割を脱ぎ捨て、一人の「個」として混ざり合う。このジェンダーロール(BLでいうなら「攻め」や「受け」といった固定的な記号)の攪拌こそが、Netflixというグローバルなプラットフォームで本作が描かれる最大の意義であり、クィア・スタディーズ(性の「当たり前」を疑い、解きほぐす学問)の視点から見ても極めて刺激的なポイントなのです!

 この入れ替えの妙が映像を通じて伝わってくる理由は、キャスティングの見事さにあります。BLの映像作品では、わかりやすく二人に体格差があったり、片方がかっこいいキャラ、片方がかわいいキャラであったりと、異性愛のラブストリーに容易に置き換え可能なビジュアルの座組がまだまだ多いですが、本作は違います。

 主人公二人はともに180cm超えであり、体格差も極端にはない。観る人が古典的な性別への親和性や違和感を抱きにくいまま、シームレスに変容する二人がそこにいるというところも、このギミックの説得力を増してくれます。

 ダンスで深く互いにつながりたいと思う、苦痛を伴うほどの二人の欲望はコントロール不可能。感情の高ぶりは愛のダンスとなって時に優雅に、時に楽しく踊りだします(愛がなければダンスは存在しない!)。

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