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おしりが出てるとか胸が出てるとか、もはやそんなことは大した問題ではない

 歩き方、声のかけ方、待機のポーズ。この店ではすべての作法が決まっていた。とくに重要なのはお客様のドリンクのつくり方。グラスのドリンクが3分の1以下になった瞬間を見逃してはいけない。私たちは空いたグラスを預かり、お客様が座っているテーブルの横へ平行に立ち、それから右足を一歩下げひざまずき、立てていた左の膝を下げて床に座る。これを1日のあいだに何度も繰り返す。膝のクッションがなければ、たちまち膝が擦りむけて、かさぶただらけになってしまう。注ぐウィスキーの30mlは身体で覚える。マドラーを回す回数は13回転半。それぞれの好みの濃さとお酒の種類はバニー間で共有しなければならない。これらを数か月みっちりトレーニングし、最終テストを受け、私たちはようやく本物のバニーガールというものになる。

 働きはじめてから数か月、コロナで遠のいていた客足が戻り始めた年末は、目が回るほどの忙しさだった。各テーブルに目を配ってフレンチコースの進行を管理し、厨房からやってくる料理をさばきながらピンヒールで駆けずり回る私たち。ラウンジの隅で演奏されている跳ねるようなピアノでみるみる体温が上がっていく。おしりが出てるとか胸が出てるとか、もはやそんなことは大した問題ではない。こんな格好なのに、それをからかうようなお客様もいない。竜巻のように業務をこなしながら、ガールズバーの頃とは違う充実感が心を満たす。これが本物のバニーガールの仕事というものか。たくさんの業務のなかで、お客様と話ができる時間は3分までと決まっていた。私たちは短い会話と、それ以外の仕事の姿勢をもってお客様に信頼され、名前を覚えてもらうのだ。お腹を満たして笑顔で帰っていただくこの仕事が、私はとても誇らしくなった。私の面倒をよく見てくれた先輩が退職するとき、先輩は私にオーダーで作ったバニースーツを譲ってくれた。かなり小柄な先輩だったが、胴体の短い私の身体に先輩のバニースーツはぴったりで、それから私のトレードマークは美しいバラ柄の模様が描かれた水色のバニースーツになった。しばらくして自分でも派手なピンク色のオーダーメイドスーツを作ったものの、常連のお客様たちが口々に「水色のほうがアワちゃんぽいよ」と言うので、そちらの方はあまり着ていない。

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伊藤亜和(いとう・あわ)

文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

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Column

伊藤亜和「魔女になりたい」

今最も注目されるフレッシュな文筆家・伊藤亜和さんのエッセイ連載がCREA WEBでスタート。幼い頃から魔女という存在に憧れていた伊藤さんが紡ぐ、都会で才能をふるって生きる“現代の魔女”たちのドラマティックな物語にどうぞご期待ください。

2025.06.03(火)
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香