この記事の連載

16歳までの人生を横浜で過ごした伊藤さんは、大学受験を機に上京。以来、自分の中の世界の基準が東京になったのは、”東京に毒されている”から? 「東京」をめぐる思いと、大学時代に出会ったある友人との思い出を綴ります。

「私は絶対、一生都会で暮らしてやるんだから。田舎に引っ込むなんてありえないわ。ヨボヨボになっても東京のど真ん中で生きて、肺いっぱい排気ガス吸い込みながら死んでやる!」

 隣のテーブルから聞こえてきたマダムの声に、私は思わず声を出して「そうだそうだ」と言いながら大きく頷いた。マダムはまるで、店にいる全員に向けて宣言するような大きな声でそう言い切ったあと、満足げに傍らのワイングラスを口へと運ぶ。私があのマダムと同じくらいの年齢になってもあんなふうに言えるかどうかはわからないが、ともかく今はその主張に大賛成だ。

 私は横浜の港町で生まれ、小学校に入ってからは、その少し奥の急坂に囲まれた静かな町で育った。どちらも横浜にしては田舎っぽいところだったが、少しバスか電車に乗りさえすれば、子どもだけでも気軽にみなとみらいに行くこともできた。映画館も、大きなショッピングモールも、観覧車もある私たちの遊び場。東京というところがあるのはなんとなく知っていたけれど、わざわざ行きたいともその頃は思っていなかったように思う。自宅から1時間以内の場所で16歳までの人生を過ごして、きっとこれから先も、ずっとここで生活をしていくのだろうな、と私は考えていた。

 高校3年生になったとき、母は私の座っている床に何冊かのパンフレットを並べた。どれも表紙には大きな建物の写真が印刷されていて、どれにも大きく書いてある漢字の羅列の最後には「大学」という文字がついていた。大学。私が?

「受験料は1校分しか出せない。このあたりなら推薦でいけるかも。ダメだったら働いて」

 母はパンフレットのひとつを開きながらそう言った。うちの家族には大学に行った人間がいない。家族どころか、親戚全員の顔を思い浮かべても、だれひとりとして大学を出た者がいなかった。大学って、一体なにをする場所なんだ? その当時、声優かバンドマンになるつもりだった私は、母からの「大学進学」という提案に全く乗り気ではなかった。「大学? そんなよくわからないところで貴重な時間を潰している場合じゃないんだ。私は一刻も早く日本工学院のミュージックアーティスト科に入って、スターにならなければならないのに」。ギターに指一本触れたこともないくせに、私はそんなことを思っていた。しかし、そんな気恥ずかしい夢を皮肉屋の母に言えるはずもなく、とりあえず言われるがまま、東京の大学のオープンキャンパスというものに行くことになった。

2025.02.04(火)
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香