この記事の連載

何者でもなかった伊藤さんの運命は、ある日を境に急激に変化することに。「私たちの時代」の到来を喜んだのもつかの間、どこか予感していた「特別な魔女」との友情は終焉を迎えます。魔法のない時代に生きる女たちの「魔法」にまつわるエッセイ、第5回です。(後篇を読む)

 ここでは誰もホウキに乗って飛んだりはしない。誰も物を浮かび上がらせることもできないし、変身することもできない。誰も魔法を使うことはできないのに“魔法”という言葉だけが存在している。言葉とは生活において、他者と情報を共有するツールである。誰も使わない概念ならば、滅多に口にすることもない。例えば、私たちは“祭壇”という言葉を知っているが、司祭かなにかでないかぎり、その言葉を頻繁に口にすることはない。ふとした会話の中で、相手が脈絡なく「祭壇が」と口にしたとして、あなたは瞬時に頭の中で祭壇という漢字に変換することができるだろうか。さいだん、裁断? 私たちはきっと、数秒間考えて、それから相手に聞き返す。それから相手が「祭壇。祭りに壇上の壇」とか説明を付け足して、そこでもまた「だんじょうってなに? ダンジョン? あっ、壇上ね! ステージとかの!」とかそんな会話をケラケラ笑いながら言って、それからやっと共有された「祭壇」という言葉についての話題に戻る。現実に存在する祭壇ですらこうなのだから、魔法という言葉がこんなにも生活に浸透していることを私は不思議に思う。魔法なんてどこにもないのに、大抵の人が魔法についてのイメージを瞬時に思い浮かべることができる。どうしてだろうか。

 それはたぶん、この世界には魔法そのものはないにしても「魔法のような技術」が溢れているからだろう。誰もが真似することができない卓越した技術や作品を目の当たりにしたとき、人はそれを「魔法のようだ」と称賛し、ときにはその技を持つ人を「魔法使い」と呼ぶこともある。「オズの魔法使い」の物語の中で偉大な魔法使いと讃えられていたオズ大王の正体も、実際は卓越した手品と嘘の技術によって人々に「オズ大王は魔法使いだ」と信じ込ませていただけのおじさんだった。オズ大王は魔法使いと名乗るペテン師として物語の中にいるが、少なくとも、オズ大王には魔法使いを名乗れるだけの手品の才能があったのだ。もし魔法の国ではなく、私たちのいる世界に留まっていたのなら、彼はドロシーにペテン師だと言われることもなく「魔法使いのような手品師」として、堂々と尊敬の眼差しを受けていたに違いない。この魔法のない世界において、魔法とは才能のことなのだから。

2025.04.01(火)
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香