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音楽グループ「ゴールデン・ハーフ」に誘われていた

近田 小夜子と俺、昔は渋谷から東横線で一緒に帰ったもんだよ。俺は等々力だったから、自由が丘で乗り換えて別れたんだよね。ところで、クレオパトラ党のメンバーの中で、ハーフだったのは、キャシーと順子さんだけ?

浅野 そうね。でも、あの頃はハーフのモデルが多かったわよね。杉本エマとか、流行ってたもんね。

近田 順子さんには、芸能関係からのアプローチはなかったの?

浅野 実は、ゴールデン・ハーフに入らないかという誘いがあったのよ。

近田 「黄色いサクランボ」を歌ってたゴールデン・ハーフ? 確かに、彼女たちは全員がハーフだという触れ込みだったよね。実際は違ったらしいけど(笑)。

浅野 芸能界って時間厳守じゃない? 私には無理だと思ってすぐに断ったわよ。ちなみに、私の代わりに入ったのが、マリアっていうメンバー。

近田 当時、順子さんはいろいろな女友達の家を転々としてたわけだよね。彼女たちとは、どこで知り合うの?

浅野 遊びに行った先で、気が合ったら友達になるのよ。普通の会社員もいたけど、デザイナーや美容師の卵とか、ファッション関係の子なんかも多かったわね。知り合ったついでに「じゃあ今日泊めてね」って頼むの(笑)。

近田 カジュアルだねえ(笑)。

浅野 なかでも、九品仏は思い出深いなあ。私の友達がいわゆる二号さんをやってて、その相手の男の人にマンションを借りてもらって住んでたのよ。

近田 順子さんの友達ってことは、二号さんといっても、まだ若かったんでしょ。

浅野 そう。まだ10代だった。

近田 すごいなあ。

浅野 「順子、いつでも遊びに来ていいよ」って言うから、お言葉に甘えてすっかり住み着いちゃった。挙句の果てに、ナポレオン党の面々まで入り浸るようになって、そこに遊びに来る女の子を口説いたりしちゃってさ。

近田 俺、さっきも言ったように実家は等々力なんだけど、2駅隣の九品仏に、そんな場所があったなんて。

浅野 まあ、女の子たちも、満更じゃない様子だったけどね(笑)。

近田 クレオパトラ党時代、危ない目に遭うことはなかったの?

浅野 あの頃の横浜にはいろんな不良グループが入り乱れていたから、それなりに物騒なこともあったけど、ナポレオン党が守ってくれたからね。振り返ってみれば、よく生き残ってこれたもんですよ(笑)。

近田 ここまでいろいろと順子さんの若い頃の話を聞いてきたものの、中身が濃厚すぎて、実はまだ20歳にも到達していない(笑)。次回は、ゴーゴーガールやモデルとしての活躍についてお聞きします。

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浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

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2025.01.25(土)
文=下井草 秀
撮影=佐藤 亘