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 ドラマ「SHOGUN 将軍」でゴールデングローブ賞助演男優賞(テレビドラマ部門)を受賞し、国際派俳優として注目される浅野忠信(51)。長女のSUMIRE(29)、長男のHIMI(25)もモデルやシンガーソングライターとして活躍中。そんな一家の面々を陰で支えてきたのが、浅野忠信の母、浅野順子さん(74)だ。

 順子さんは、戦後、日本に駐留していたアメリカ人調理兵の父と元芸者の母の間に生まれ、1960年代、山口小夜子やキャシー中島も所属し、横浜・本牧のディスコで華やかに遊ぶことで知られていた美少女グループ「クレオパトラ党」の一員だった。さらに、60歳を過ぎて出会った恋人に才能を見出され、画家デビューしたという特異な経歴を持つ。

 彼女と同時代を生きてきた畏友、ミュージシャンの近田春夫さん(73)を聞き手に迎え、稀代の女傑の半生を彼女のアトリエで掘り下げる。(第3回/第1回から読む/第2回を読む)

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高校中退後、銀座のディスコの「ゴーゴーガール」に

近田 高校中退後の順子さんって、どうやって生計を立ててたの?

浅野 銀座7丁目にあった「キラー・ジョーズ」っていうディスコで、ゴーゴーガールをやってたのよ。16か17からだったかな。

近田 念のため、若い読者向けに説明しておくと、ゴーゴーガールっていうのは、ディスコ専属で踊る女性ダンサーのことね。

浅野 キラー・ジョーズに出てたバンドでは、後にアリスに加入する矢沢透、愛称キンちゃんがドラムを叩いてた。

近田 そうだったんだ。キンちゃん、もともとブラウン・ライスっていうソウルバンドのメンバーだったもんね。その頃を知ってる俺からすると、アリスみたいなフォークっぽいグループで活動し始めたことの方が意外だったんだよ。

浅野 あとは、リッキー&960ポンドとか、ズー・ニー・ヴーとか、後に売れることになるバンドがたくさん出てましたよ。

近田 ちなみに、その少し後、70年代前半の話だけど、俺のいたバンド、近田春夫&ハルヲフォンは、銀座6丁目の交詢ビルディングにあったディスコ「シーザース・パレス」で、レギュラーとして演奏してたのよ。いわゆるハコバンってやつね。人気あったんだよ(笑)。

浅野 当時のディスコで流れる音楽は、レコードじゃなく、生バンドだったのよね。

近田 そう。だから、同時代では、ディスク=レコードを語源に持つディスコではなく、ゴーゴー喫茶とか呼ばれてたよね。あと、踊り場とも言ってた。

浅野 フィリピンから出稼ぎに来たバンドも多かったけど、それがみんな達者でさ。

近田 フィリピンのバンドは、最新の曲をコピーするのが早いのよ。彼らは英語が出来るし、一人一人の腕はそれほどじゃなくとも、アンサンブルが上手いんだよね。日本人のバンドは、なかなか太刀打ちできなかったよ。

浅野 キラー・ジョーズの隣にあったジャズ喫茶「銀座ACB(アシベ)」では、デビュー前の和田アキ子が歌ってたっけ。

近田 確か、あそこ、ホリプロがブッキングしてたんだよね。

浅野 「売れたらおごってねー」なんて軽口を飛ばした覚えがあるけど、本当に売れちゃったわよね(笑)。

2025.01.25(土)
文=下井草 秀
撮影=平松市聖