「……父が雪哉を軽んじ続ける限り、雪哉はずっとこのままです。だから、あいつが俺や母上に憚らず、自由でいられるのなら、中央で生きていけば良いと思っていました」

 雪哉を厭うているわけでは断じてない。

 母は、雪哉を実の子として育てて来たし、家族であるという強い思いは、雪馬も雪雉も同じである。だから、いつまでも垂氷にいて欲しいと思う反面、雪哉がこの小さな地方の郷の中に収まって、自分の能力を無理やり押さえ込んで生きて行くのは、もったいないと思っていたのだ。

「なんで、あいつは戻って来てしまったのでしょう」

 他でもない若宮殿下に引き留められたのなら、中央に残っても良かったはずである。むしろ、本人のためにはその方がずっと良かったのに。

 助けを求めるように墨丸を見上げれば、中央から来た客人は、何かを思い起こすように視線を遠くへ向けていた。

「若宮に仕える事に、価値を見出せなかったようだ。自分にとって大切なのは家族と故郷だけだと、再三言っていたくらいだから」

「じゃあ、あいつはまだ、垂氷に囚われているんだ」

 胸の奥をぎゅっと摑まれたような気分になり、雪馬は服が濡れるのも構わず、墨丸の横に両膝をついた。

「お願いです、墨丸殿。いずれ郷長になる以上、私には弟を救えません。どうか、私に代わって雪哉を、自由にしてやってはもらえませんか」

 雪馬の様子をまじまじと見た墨丸は「顔をお上げなさい」と、静かに命令した。

 そして、縋るような眼差しの雪馬と目が合うと、やわらかな微笑を浮かべたのだった。

 なまじ見目の良い男なだけに、笑うと一気に華やいだ雰囲気になる。

 それまでの表情が薄かったせいもあり、まるで乾いた地面から、突然に花が湧いて出たかのような有様であった。しかも、その笑顔は美しいと言うよりも、まるで幼子を見守るように、優しげである。

 急な表情の変化に面食らった雪馬に向けて「そう考えるのも早計なのではないか」と墨丸は穏やかに告げた。

2024.07.27(土)