雪哉の実母は、雪哉を生んで、すぐに儚くなった女である。だが、その生まれは垂氷郷の主家にあたる、北家であった。
なまじ、母親の身分が高かったのが災いした。
年がひとつだけしか違わない事もあって、かつては長男の雪馬を廃し、雪哉を次の郷長にしてはどうかという動きがあったのである。雪哉と雪馬、どちらが次の郷長となるかで、しばらくは揉めていたのだ。だが、主家である北家の顔色を窺い、親戚達の攻撃に耐えかねた父は、結局、どちらを跡目にするとも明言出来なかった。
「ですから、私が跡目として認められるようになったのは、雪哉が私を立てるように振舞ってくれたおかげです。学問であれ、剣の仕合であれ、私と比べられると分かると、あいつはすぐに手を抜くのです。わざとだというのは明らかでした。だって、父が見ていない時の兄弟喧嘩で――口でも腕っ節でも、私があいつに勝てたためしは、一度だってないんですから」
母も末弟も、それは承知していた。分かっていないのは父だけなのだ。
「雪哉が意図してぼんくらを装っているだなんて、父はちらとも考えていないのです。もしかしたら、そうと分かるのが怖くて、あえて考えないようにしているのかもしれません」
雪馬は手を止めて俯いた。こんな事を、自分で言わなくてはならないのが非常に情けなく、それ以上に、雪哉に対して申し訳がなかった。
「きっと父は、安心したいのだと思います。私を跡継ぎにして良かった、自分の判断は間違っていなかった、と。実際は、父が私を選んだわけではなく、雪哉が私を後継ぎにしてくれたというのが本当ですが」
そのため、母も自分も、雪哉に対して後ろめたいような気持ちを抱いてここまで生きて来た。雪哉が、父や親類達が言うような「ぼんくら」でないのは百も承知なのに、次男坊の気遣いに甘えなくてはならない立場にいて、やきもきし続けていたのだ。
だからこそ雪哉の中央入りは、自分や母にとって、心から喜ばしい事だった。
2024.07.27(土)