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父の死がもたらした肉体への執着

 シーレは、ウィーン北西30キロの距離にある古都トゥルンで生まれた(今ではエゴン・シーレ美術館がある)。

 父はトゥルン駅長で、一家は駅舎の二階に住んだ。鉄道は国営だったから父は関連の証券も保有し、比較的豊かな中産階級の暮らしを送ることができた。子どもは早逝した二人をのぞいて4人。シーレは姉二人妹一人にはさまれた唯一の男児だった。ハンサムでおしゃれな父は野外劇パレードでコスプレをしたり、一人息子を可愛がって汽車や馬車に乗せての小旅行など贅沢を教え、レール付きの大きな鉄道模型も与えた。日々、汽車の音を聞き、汽車を見て育ったシーレが模型に夢中になり、また鉄道の絵も飽きず描いたのは必然だろう。

 だが学校でのシーレの出来は芳しくなかった。勉学に興味はなく、友達もできない。絵だけは突出して上手いが、周りからは浮いていた。そのうち引きこもりがちになる。期待を裏切られた父が絵を描く時間を減らそうと、シーレの汽車の絵を燃やしたことさえあるが無駄だった。絵に対する情熱は誰にも止められず、題材の幅が広がっただけだ。

 父に異変が起きたのは、シーレが十二歳頃だ。結婚前から罹患していたと思しき梅毒が原因だった。ツヴァイクの『昨日の世界』によれば、当時のウィーンの若者の一、二割が梅毒に罹患していたというから、この時代は性病の時代でもあったのだ。

 ゆっくりと父の梅毒は脳へまわり、仕事ができなくなって退職した。一家は近くの町へ引っ越し、生活は暗転する。そしてシーレが14歳の時、ついに父は狂死した。大好きだった父親が全く別人格となって崩壊してゆく様を目の当たりにした思春期の少年に、それがどれほどの破壊力であったかは想像に難くない。

 同じような形で祖父と父を亡くしたデンマークの童話作家アンデルセンが、自分もいつか頭がおかしくなるのではと生涯怯え続け、その恐怖が「生きたままの埋葬」という強迫観念の形を取ったことが思い出される。アンデルセンは旅先のホテルへは常に脱出用ロープを持参し、ベッドサイドテーブルの上には「死んでいるように見えるかもしれませんが、まだ生きています」とメモを置くのを忘れなかった。

 シーレはといえば、彼が初めて自画像を描いたのは父の死の直後である。その後二百点もの自画像を描くことになるのだが、画中の彼は常に鋭い視線をこちらへ向け、その体は月日が経つにつれ痛みの記憶が鮮明になるかのように各部が針さながらに尖り、見る者をひりひりした感覚に陥れる。彼にとっては肉体、それも性器への執着は、父の梅毒と関係なしとは言えないだろう。

 父没後、母はシーレの画家志望にいっそう反対した。プロになっても自活できるとは思えず、鉄道エンジニアのような地道な職について一家を支えてほしかった。しかしシーレはそんな母の気持ちを逆撫でする行動を取る。15歳の時、2歳下の仲の良い妹ゲルトルーデと二人で泊まりがけの旅に出たのだ。

 以前から彼女をモデルに絵を描いていたが、この度はヌードモデルとして連れて行った。これに関して、兄妹は近親相姦的関係だったと考える批評家が少なくない。真相はわからないものの、二人とも普通の感覚と違っていたことは間違いあるまい。母親の心配と怒りも当然だろう。

 16歳でギムナジウム(進学校)を終えたシーレは首都に上り、工芸美術学校にしばらく在籍した後、ウィーン美術アカデミーを受験して最年少での合格を果たす。幸いにも裕福な叔父が後見人となってくれたので、想像するほど貧しいウィーン生活ではなかった。ちなみに前にも触れたが、この翌年の1907年に18歳のヒトラーが同校を受験して落ちている。翌年に再度挑戦し、また落ちた。倍率は4、5倍程度だったらしい。

2024.06.19(水)
文=中野京子