この記事の連載

 中野京子さんによる《名画×西洋史シリーズ》最新作がついに刊行! 本作『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』の舞台は、美とエロスと死の気配に満ちていた“ウィーン激動の時代”。クリムト、シーレ、ヴィンターハルターらの名画から、「良き時代の終末」を読み解きます。

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無害で取り換え可能の“スウィート・ガール”

 クリムトと誕生年が同じアルトゥール・シュニッツラーが戯曲『恋愛三昧』を書いたのは1895年、33歳の時。ブルク劇場で上演されて大評判になり、ロングランを続けた(後に映画化もされている)。登場人物のスウィート・ガール(「甘い娘」「可愛い女の子」、ドイツ語でSüßes Mädel)に、男たちが「甘い」幻想を抱いたことも人気の所以だったらしい。自分のために死んでくれる可愛い女の子という幻想だ。

 筋立ては単純ながら心理描写に長け、世紀末ウィーンの風俗もよくわかる。

――良家の息子フリッツは気楽な立場にあるため何ごとにも真剣さを欠き、アンニュイのうちに生きていた。恋愛経験豊富で、今も人妻と関係を持ちながら、ウィーン郊外(いわゆる下町)の純情な娘クリスティーネともつきあっている。

 やがて浮気はばれ、人妻の夫から決闘を申し込まれてフリッツは初めてリアルな死を意識する。そしてそれまで気楽な恋愛ごっこの相手と思っていたクリスティーネといる時が、ほんとうの幸せだったことに気づく。彼はクリスティーネのもとを訪れ、「旅に出る」と告げて決闘へ赴き、斃れた。

 フリッツを心底愛していたクリスティーネは、彼が別の女性のために決闘で死んだ
と知らされるや、狂乱状態で家を飛び出るのだった……。

 クリスティーネの自殺を暗示して、幕は下りる。

 身分が低く、財産もなく、社交の場での礼儀作法にも疎いため結婚相手にはならないが、可憐で生きる喜びにあふれ、一途な恋心を寄せるクリスティーネ。階級が上の男たちにとっては、甘いデザート菓子のように、ひとときの遊び相手には都合が良い。彼女のような若い娘が、スウィート・ガールの典型だ。

 フリッツはクリスティーネこそが幸せのもとだと気づくが、それは勝ち目のない決闘を控えて死を意識したからだろう。そういうことがなければ、スウィート・ガールはあくまでスウィート・ガール。いくら相手から真の愛を捧げられようと飽きれば捨てるし、自分にふさわしい女性との結婚の妨げにはならない。

 世紀末の芸術作品は妖艶で危険なファム・ファタール(「運命の女」「悪女」)であふれていた。しかし男を破滅させかねない美女に現実社会で出会う確率などきわめて低い。むしろその正反対の、無害で取り換え可能の貧しいスウィート・ガールのほうがはるかに多かった。彼女らはブルジョワ男によって束の間ウィーン中心部の華やかな世界に身を置き、捨てられれば娼婦に堕ちるか、郊外へ帰って自分と同じ身分の労働者階級の男の妻となった。

 もちろん例外もある。フランスのココ・シャネルも若い時はスウィート・ガールだったが、自分を遊び相手に選んだ貴族を足掛かりにしてあのシャネル帝国を築いた。耐え難い屈辱、血のにじむような努力、そして才能による大勝利だ。つまり搾取される側にも勝ち目はあるのだ。ごく稀とはいえ、こうして相手の男の「甘さ」を利用してのしあがることが可能なのが、男女関係の面白さだろう。

 ちなみに『恋愛三昧』初演時のクリスティーネ役女優は、シュニッツラーの愛人の一人だった。ヒロインに抜擢されたのは、彼にとってのスウィート・ガールだったおかげかもしれない。

 女優、歌手、バレリーナ、絵画モデルは、娼婦と同列と見なされた時代だった。それでも前三者はプロとして圧倒的才能があれば敬意をはらわれたが、ヌードでさまざまなポーズをとるモデルは違う。スウィート・ガールの成れの果ての娼婦扱い、というより、社会の最底辺扱いだった。

 クリムトもそう考えていた。彼はアトリエに常時おおぜいのモデルを集め(ほとんど雑居状態と言ってよかった)、オールヌードで動きまわらせた。興が乗ると長時間描き続け、飽きれば庭で筋肉トレーニングに励み、再びスケッチにもどり、気分転換に彼女らをベッドへ誘った。「モデルに触れないと描けない」と豪語していたから、見境なしだ。

 正妻扱いのエミーリエ・フレーゲとの間に子はできなかった代わり、モデルたちとの間に十四人(認知されたのは六人との説あり)。だがおそらくそれ以上の数の子を作っているのではないか。自分の子と認めた母子にはいくばくかの金を渡したが、父親としての役目は全く果たさなかった。自分自身も貧しい家庭に育ちながら、多くのウィーン男と同じく底辺の女を性欲のはけ口としか見なかった。相手もベッドで喜んでいると自惚れていたかもしれない。自分の子にすら冷淡で、わずかの遺産も与えていない。

 クリムトはしかし、妊娠した女体そのものには強い関心を示している。『希望Ⅰ』がその証拠だ。妊婦は馴染のモデルで、お腹の子がクリムトの子かどうかはわからない。彼女は妊婦姿を描かれるのを嫌がったが、クリムトの説得に負けたという。本作は分離派展に出品しようとして検閲官から「卑猥」の烙印を押され、叶わなかった。

 悪女のイメージをもつ赤毛がほんとうにこのモデル自身のものか、クリムトが敢えて赤毛にしたのかは不明だ。彼は妊婦の体は「醜悪」でも、腹には「子どもという美しい希望」があると語っている。その言葉と裏腹に、妊婦の周囲には巨大なナマズ(男根の象徴)や精子や死神、さらに病や絶望などを象徴する陰鬱で歪んだ顔を並べている。

 クリムトは若く美しい女性の肉体は愛しても、際限なく子を産み続ける女性性というものを実は憎んでいたのだろうか。それとも女の心は厄介すぎて、肉体としか関わりたくなかったのだろうか。思えば彼は終生、実家で母親や妹たちと暮らした。エミーリエとすら、いっしょに暮らしたことは一度もなかった。

2024.06.19(水)
文=中野京子