この記事の連載
- 『ソーシャルジャスティス』より #1
- 『ソーシャルジャスティス』より #2
私が生まれたとき母は医学部の4年生でした
また、誹謗中傷で「死産報告書」を送られた件について、涙を交えて話すと、「女の涙は演技、泣き落としと言った悪しき偏見が向けられてしまうのが現実ですし、他者の目をもう少し気にして脇の甘さをなくしていただきたい」という声も寄せられました。胎児が死ぬと脅された妊婦が泣くという自然な感情さえも「これだから女は」と批判の対象になること、また一見味方と思われる人からの牽制的な声には二重の辛さがありました。
「マイクロアグレッション」とは、「政治的文化的に疎外された集団に対して日常の中で行われる何気ない言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと」と定義されますが、日本社会の中で「女性」が未だにマイノリティであること、無意識のバイアスから生まれる小さな攻撃は日常の中のあらゆる場面に潜んでいることにも気付かされました。
私は現在ハーバード大学医学部アソシエイトプロフェッサー、またマサチューセッツ総合病院の小児うつ病センター長という立場で、小児精神科医として子どもの精神疾患を診察する臨床、人間の感情や判断に関わる脳機能を解明する脳科学研究、そして医学生や研修医の医学教育に携わっています。研修医時代を過ごしたイェール大学で出会った愛するチェリストの夫と共に息子を3人育てており、子どものメンタルヘルスは単に職業にとどまらず、まさに自身に直接関わるテーマとして情熱を持って取り組んでいます。
人生を通してテーマとなっているものが三つあります。科学、ソーシャルジャスティス(社会正義)、そして人間が大好きだということです。振り返るとこの三つのテーマがちょうど重なった部分が小児精神科医という職業だったのだと思います。
私が生まれたときに母は医学部の4年生でした。幼少の頃の思い出として覚えているのは、母が医師国家試験のために猛勉強する姿、その後は研修医として駆け回っていたこと。大抵保育園の中で一番最後だったお迎えのあと、母とスーパーに寄って「今日の夕飯は何にしようか」と話したこと。たまにどうしても保育園に行きたくないと訴え、母の病院に付いていき、医局にあった箱庭療法の砂や人形で遊んでは他の先生に声をかけてもらったこと。
分子生物学者の父は、母の国家試験と同時期に博士論文を書いていて、大人は皆勉強しているものだと思っていたこと。父が仕事の後いつも急いで文字通り走って帰ってきていたこと。母の当直の日は、スポーツマンの父からサッカーや野球など様々なスポーツを教えてもらったこと。まだまだ「女性の医師」も「働くお母さん」も珍しかった時代に母が医師になる姿を見ることができただけでなく、その母をこよなく愛し、自分のキャリアも前進させる父、そんなカップルに育ててもらえたことが、どんなにラッキーだったことか、当時の私は全く知りませんでした。
父の研究のために、小学校入学前にアメリカに引っ越し、小学校時代はアメリカ、スイス、日本の3か国で5回の転校を重ねました。誰にでも合う生い立ちではなかったと思いますが、きっと両親は私の性格や反応を見ながら引っ越しや転校の判断をしてくれたのだと思います。
私は幼い頃から「人」が大好きでした。違う国に引っ越して転校する度に新しい友達を作る機会にワクワクし、様々な人と会話をするのが好きでした。また、人間がどのように感じて考えて行動に出るか、そんな人間がたくさん集まってできる社会では、グループとしての動きがどう生まれるのか、ということを考えるのも好きでした。人間が何かを感じたり考えたりするのを司っているのが脳という臓器です。その脳がどんな働きをしているかを知りたいと小学生の頃に強く思ったことも覚えています。
2024.01.12(金)
著者=内田 舞