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 アガサ・クリスティーが生んだ「名探偵ポワロ」。口髭を芸術品として整え、ぴかぴかのエナメル靴を履くポワロを、TVドラマシリーズで25年間演じ続けたイギリスの俳優がデビッド・スーシェです。スーシェがポワロを演じることになった理由や、撮影中のエピソードをつづった自伝『ポワロと私 デビッド・スーシェ自伝』より、役作りの秘密を紹介します。(全2回の1回目。後篇を読む)


 2012年11月のあの日の午後にエルキュール・ポワロが死んだとき、彼とともに私の一部も死んだ。

 アガサ・クリスティーが生んだ潔癖の小柄なベルギー人探偵は、ほぼ四半世紀にわたって私の人生の一部だった。25年にわたって100時間以上もテレビで役を務めてきた彼の死を、私は今ここで演じようとしていた。

 こだわりが強く、親切で礼儀正しいポワロ。ちょこちょこと小刻みに歩き、「灰色の脳細胞」と独特の訛りを持つポワロ。あの男が私にとってどれだけ大きな意味を持つようになっていたか、言葉ではとても言い表せない。今、長い年月をともにした彼を失うことは、たとえ私が役を演じただけの俳優にすぎないとしても、最愛の友を失うのと同じだった。

 ただ、ポワロの魅力は十分に発揮されたという自負もあった。私は世界中の何百万という人々に向けてポワロに命を吹き込み、彼らに私と同じくらいポワロを大切に思ってもらえるように努力してきた。あの日、スタジオでポワロとして息を引き取ったとき、私はようやく安らぎを得た。なぜなら、これでもう二度とポワロを演じることはないからであり、映像化すべき原作は残っていなかったからだ。

 エルキュール・ポワロの死は、私にとって長きにわたる創造の旅の終わりだった。アガサ・クリスティーが書いた本物のポワロを演じたい、彼女が1920年に『スタイルズ荘の怪事件』[矢沢聖子、早川書房、2003年]で初登場させ、半世紀以上後の1975年に『カーテン』[田口俊樹訳、早川書房、2011年]で最期を遂げさせたポワロの真の姿を伝えたいと一途に願ってきたからこそ、それは一層私の心を揺さぶった。

2022.11.09(水)
文=デビッド・スーシェ、ジェフリー・ワンセル
訳=高尾菜つこ