感覚と分析を自在に行き来する表現の妙
では、駒場も同じように叩かれたのか。答えは否である。むしろ称賛された。なぜなら、「めっちゃええ」と感じた理由を、駒場はすぐに分析的な言葉で説明していたからだ。
たとえば、9組目の豪快キャプテン。小さいカバンを渡そうとするボケ役に対し、短気なツッコミ役が「いらん」と拒み続ける。そのうち話題は「パンパンなポケット」の話にズレていき――というネタだった。96点をつけた駒場は、冒頭で「ホンマにめちゃめちゃええです」と述べた上で、次のように続けた。
「漫才って、全部そうかもしれないですけど、聞いたほうがええ話と、聞かんでええ話とあると思うんですけど、ホンマに聞かんでええ話なんですよ、豪快キャプテンって。でも、聞かんでええ話を聞いてみたらめちゃくちゃおもろかったっていう、この……なんやろう、だから逆にあんま誰もやってないテーマになっていってるっていうのも、実はすごいことやってて。ちっちゃいカバンで漫才1個やってるの、他に見たことないし」
少し長めのコメント。言い淀みもある。しかし、内容は分析的で明快だ。漫才には「聞いたほうがええ話」と「聞かんでええ話」があり、豪快キャプテンは後者を扱っている。そのうえで、そんな「聞かんでええ話」で観客を楽しませる点にこそ彼らの魅力と独自性がある、と。
コメントの締め方も象徴的だった。
「大阪でも、めちゃくちゃウケてるときと、めちゃくちゃウケてないときあるんで。でも、その0か100かっていう具合が豪快キャプテンのめちゃくちゃいいところやと思うので。僕はホンマに大好きです」
前提にあるのは「めっちゃええ」という感覚だ。その感覚を構造的な理由へと分解し、観客や視聴者に説明する。そして最後は「大好き」という感覚に改めて着地させる――。今回の駒場の講評は、ほぼ一貫してこの型を取っていた。感覚的な言葉と分析的な言葉を往復する語り口は、ミルクボーイの漫才にも通じる「行ったり来たり」のリズムを帯びている。
この手つきはある意味で、「推し」の魅力を「言語化」する行為とも重なる。
SNS時代、私たちは何かを「推す」だけでなく、その魅力を「言語化」する能力まで求められる。だが、言葉にしきれないからこそ尊いという感情を伴う「推す」行為と、そんなパッションの奔流から距離をとる「言語化」は、本来別の方向を向いている。「推し」の魅力の「言語化」を迫る社会は、感情をもつことも説明することもどちらもうまくやれと要求する社会でもある。
そうした息苦しさが共有される時代だからこそ、素朴で感覚的な言葉と、舞台経験に裏打ちされた分析的な言葉を往復する駒場のコメントは、多くの共感を集めたのだろう。積極的に笑いを取りにいくのではなく、やや長く、つっかえがちな語りは必ずしも「テレビ的」ではない。しかし、そこから滲み出る駒場の誠実な人柄も、称賛を集めた理由だったのかもしれない。
