戦争の理不尽さをじわりと伝える、映画での設定変更
翻って映画では、戦争や原爆がかなり前面に押し出されている。悦子の夫二郎は出征した結果、腕に後遺症が残っており、茶碗を持つにも不自由し、ネクタイは妻に結んでもらっている。その彼女自身も被爆して大きなトラウマを抱えており、ときどきその記憶に苛まれる。こうした原作からのいくつかの設定の変更が、観るものに戦争の理不尽さをじわりと伝える。

戦争の記憶を語り継ぐということ
そして映画化におけるもう一つの大きな変更は、戦争の記憶を語り継ぐということを強く打ち出している点だろう。映画では悦子の娘ニキは作家志望であり、母親の戦争や被爆の体験を書き記そうとしている。おそらくは不倫関係と思われる彼女なりのさまざまな個人的問題も抱えているようだが、最後は母親の話をしたためた原稿が入った重いスーツケースを押しながら、バックにロック音楽が鳴り響くなか、一人たくましくロンドンへ帰っていくところで幕を閉じる。
全体に重苦しく、薄暮のなかの薄気味悪いシーンが印象的な本作であるが、観終わったあとは一つの物語を体験したという深い充実感とともに、このエンディングのために、意外にも爽快な気分で劇場を後にすることになるだろう。

個人的には、原作のあるシーンが巧妙に映像化されているのが特に心に残った。アメリカ人の男性と渡米することを考えている佐知子は、娘の万里子が飼う子猫を邪魔に思って、川の水に沈めて殺そうとする。二階堂ふみ演じる佐知子が、土手の上にいる娘を振り返った時、それをやめさせようとしていた広瀬すずが務める悦子もそろって同じ方向を見る。
ここでそれまで一見正反対の性格のようだった二人が、一瞬のあいだ不気味に重なる。原作ではほんの数行のこのシーン、映画でもごくわずかの時間だが、娘の万里子の視点から見つめるほの暗い河原に立つ二人の無表情な顔が、美しくも背筋をぞっとさせる。広瀬と二階堂の若手実力派が遺憾なくその力を発揮し、この対照的でありながら、時折奇妙に重なる二人の女性を見事に演じきっている。そしてこうした記憶をひとり手繰り寄せる初老の悦子を、人生に疲れたかのような表情で吉田が好演している。

2025.09.24(水)
文=荘中孝之