ひとの記憶とはまことに当てにならないものである。時間の経過とともに薄れてしまったり、歪められてしまったり…。ときには誰かの話を聞いて、それを自分が直接体験したことのように錯覚してしまったりする。そんな記憶の不確かさを描いてきた日本生まれの英国人作家、カズオ・イシグロの長編第1作『遠い山なみの光』が映画化された。

記憶の曖昧さ、現実と非現実のあわい…イシグロ作品の要素

 原作は1982年発表のA Pale View of Hills。直訳すると「丘の淡い眺め」といったところか。同年に英国である文学賞を受賞し、1984年には邦訳も出版された。当時、長崎出身の作家がイギリスで文学賞を受賞したということで、日本でも一部で話題になったが、やはりイシグロが世界的に注目され始めたのは、英国の執事を主人公にした1989年発表の『日の名残り』以降である。

 同作はイギリスでもっとも権威があるとされるブッカー賞を受賞し、ジェームズ・アイボリー監督で1993年に映画化もされた。その後の活躍は多くの人が知るところであり、2005年出版の、クローンの視点から語られる『わたしを離さないで』などを経て、2017年にはノーベル文学賞を受賞し、今や押しも押されもせぬ世界的大作家となったイシグロである。

 最近では2021年に、AIロボットを主人公に据えた『クララとお日さま』という作品を発表している。そんなイシグロの小説群のなかでは比較的地味な部類に入るであろう本作だが、そこには彼の作品が持つさまざまな要素がすでにほとんど含まれている。記憶の曖昧さ、現実と非現実のあわい、ゴシック的不気味さ、かすかな諦念と希望…。

2025.09.24(水)
文=荘中孝之