終戦からしばらくたった長崎での数週間の出来事を描く
物語は、英国の片田舎に一人で暮らす女性、悦子のもとを、今はロンドンにいる娘のニキが訪ねてくるところから始まる。そして悦子は終戦からしばらくたった1950年代の長崎での数週間の出来事を、ゆっくりと、まるで反芻するかのように思い出していく。彼女は当時、夫と二人で静かに暮らしていたのだが、そこへ女の子を連れた佐知子という奔放な女性が現れ、悦子の一見穏やかな生活にさざ波が立ち始める…。
監督・脚本は石川慶。長崎の悦子を主演の広瀬すずが務め、佐知子を二階堂ふみ、英国時代の悦子を吉田羊が演じる。

原作の持つ謎めいた不気味な雰囲気を忠実に再現
映画はこの小説をかなり忠実に再現しており、原作の持つ謎めいた不気味な雰囲気なども巧みに表現されている。たとえば長崎時代に悦子が住んでいた団地の前に広がる湿地は、薄暗い荒野を流れる大きな川が印象的なCG映像が補完する。しかし当然のことながら、原作と映画とでは相違点も少なくない。
原作では、登場人物の多くが原爆によって何らかの心の傷を負っており、背景にぼんやりとその存在がほのめかされているものの、直接言及される箇所はほんのわずかである。その数少ない場面の一つは次のようなものである。ある日、佐知子とその娘万里子と一緒に長崎の街を見下ろす稲佐山に出かけた悦子は、眼下に広がる風景を眺めながらこのようにつぶやく。「『まるで何事もなかったみたいね。どこもかしこも生き生きと活気があって。でも下に見えるあの辺はみんな…あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったのよ。それが今はどう』佐知子はうなずいて、笑顔を向けた。」このあと二人の会話はすぐに別の話題へと移っていく。
このように、その惨禍を描くことが作品発表時のイシグロの意図であったわけではないようだ。それよりも記憶の不確実さや捉えどころのなさ、ある一人の女性の後悔や諦観といったことが、当時まだ二十代後半であった若手作家の落ち着いた筆致で綴られている。

2025.09.24(水)
文=荘中孝之