ある日を境に、なぜか同じ商品を欲しがる女性客が次々と。一流ブランドの販売員が目撃した絶望と狂気。彼女たちの運命ははたして――? 冒頭を無料公開でお届けします!


「オシャレ大好き」(背筋・著)

 コンクリートのふちに足をかける。下から吹き上げる風が心地好い。この気持ちはアドレナリンのせいなのか。怖いと感じない私はおかしいのだろうか。下を見つめる。サラリーマン風の男が足早に歩いている。私はやっと解放される。こんな世界から。

「さようなら」

 そう口にしたあと、宙に身を躍らせた。風の音が耳に響く。歩道の地面が猛スピードで迫る。身体の奥から木の枝をまとめて折ったようなバキッという音が響いた気がした。

「これ、素材はなにを使ってるの?」

 磨き上げられた全身鏡の前、試着用のコートを羽織った女性が言う。年齢は五十代くらいだろうか。額の汗が厚塗りのファンデーションを浮かせている。

「ウールを使用しております」

 私は迷わず答える。なるほどねえ。そのようなことをつぶやきながら、何かを探すようにコートの内側をまさぐっている。狙いは言われなくてもわかった。

「こちらのプライスは七十万円です」

 少し前から、アイテムのタグに価格は記載されていない。需要の高まりによる頻繁な価格改定に対応するための、本国からの指示だ。

「え? ウールなのに、そんなにするの?」

 真意を見透かされたことを隠したいのだろうか。それとも、自分はものを見る目があることをアピールしたいのだろうか。

「そうですね。『アニュス』では」

 今シーズンのなかでは人気の型だからとか、ウールの産地にこだわっているからだとか、いくらでも理由は思い浮かんだが、敢えて言わない。

「そうなの。じゃあ、少しほかのお店も回ってから考えさせてもらいます」

 そそくさと去っていく女性の背中に声をかける。

「ありがとうございました。また、ぜひ」

 コートをハンガーにかけ、ラックに戻す。今日の最高気温は三十度を超えているというのに、店内にはすでに秋冬のコレクションが多く並べられている。

2025.08.26(火)