「私の辞書には『失敗』という言葉はないんです(笑)」
キャリアの転機となったのは、12年のロンドン大会だ。この大会で世界記録の更新を目指したが、大会前に負傷。さらに肺炎にかかり、医者から「出場は諦めなさい」という絶望的な言葉を投げつけられる。
コベントリー会長「ロンドンは私にとって輝かしい大会になると思っていました。ところが病院に担ぎ込まれる事態になってしまった。
その時、私は引退を考えるようになり、今は夫となった当時の恋人とこれから選手としてどうするのかを話し合い、引退したらどんな生活になるのかを描こうとしました」

そして、彼女は次のリオ大会まで競技を続けることを決意。また、怪我と肺炎からも見事に復活し、ロンドン大会にも出場した。
コベントリー会長「リオを目指すと決めたのは、ベストの状態でないまま、オリンピックを終えたくなかったからです。
アスリートは非常にハードなトレーニングを積んで常に準備をし、万全のコンディションに整えて試合に臨みます。しかし、何か月もかけて準備をしても必ずうまくいくとは限りませんし、最高の状況も最悪の状況もたくさん経験します。
大事なのは、つまずいたときにどうするか。私は持ち前の競争心で、自分の夢を叶えるために立ち上がり、ベストを尽くしました。私の辞書には『失敗』という言葉はないんです(笑)」
引退、出産、そして母国のスポーツ大臣に
ロンドン大会が終わると、コベントリーさんは地元・ジンバブエで子どもたちに向けた活動を実施。また、競技を続けながらジンバブエ・オリンピック委員会委員や、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)のアスリート委員会委員を務めるなど、活動の場も広げた。
コベントリー会長「キャリア・チェンジというのは、アスリートにとっては最も厳しい選択です。でも私は、16年のリオ大会を最後のオリンピックと早い段階で決めたため、時間をかけて引退後の準備をすることが出来ました。その結果、将来にわたりスポーツに関わる道がイメージできるようになり、ラッキーでした」

そして迎えた16年リオ大会。最後のレースが終わると、プールを出た彼女は夫とハグを交わし、こう言った。
「これから赤ちゃんを作ろう!」
その後、母となり2年後には水泳界に復帰。競技者として一線を退き、国内外の競技団体の仕事や子ども向けのスイムアカデミーの創設、貧困地域の子どもたちに対する活動等を実施。ジンバブエのスポーツ大臣にも就任した。
2025.08.07(木)
文=長島恭子