明治時代、旧幕臣は、家斉の大御所時代を幕府の「隆盛」の時代とし、その後衰退したと見ていた。旧幕臣が主宰した雑誌『旧幕府』第一巻第九号には、来春一月に発行する号の内容の予告として、幕末だけでなく、さらにさかのぼって「十一代文恭公の御代に昇り、衰運の幕府のみならず、隆盛の幕府をも」書こうと思っている、と記している。幕末の幕府は「衰運の幕府」であることに対して、「文恭公」つまり徳川家斉の時代は、「隆盛の幕府」だったというわけだ。

 また、三田村鳶魚は『大名生活の内秘』の中で、明治の中頃まで、高齢者が語る「世の中のよかった話」は、「大御所様の時分」であり、「江戸の春は文化・文政、幕府の花は家斉将軍、とみだりに憧憬された」と記している。

 この見方をより深めるため、「文恭院殿御実紀」の家斉の死去についての記事を見てみたい。

文恭院殿はもとより世子にもあらず。養はれて大統をつがせたまひしなれど。世を治めさせたまへる事当家の随一と申すべきにや。御子もまた多くしてこれにつぐものなし。遊覧としては乗輿しばしば城内を出させたまへど。事故ありては仮にも。一歩を廓外に踏せ給ふ事なし。治世多きがゆへに。書に満るといへどもよく和順し。四海富有なるがゆへに。万民苦む事なし。また遊王となりて数年を楽しみたまふ。嗚呼 福徳王と申たてまつるべきかな。いま臣命をうけて。はじめにこの記を録したてまつる事。実に忝しと申すべし。

 まず、家斉が嫡子ではなく養子でありながら、世を治めたのは「当家の随一」と述べていることに対し、十四代家茂・十五代慶喜もいずれも養子であるが、幕府の衰えていく運命を止めることが出来なかった。家斉は子沢山であり、弊害もあったが、世継ぎの確保は政権の安定には必須の事である。しかし、十三代家定の時には、跡継ぎをめぐり、大規模な政争が起こり、その後の幕府政治にも影響を与えた。家斉が江戸から出ることがなかったことは安定の象徴であり、十四代家茂は、体制の危機に直面し、京都に長期滞在することになった。

2025.06.03(火)