【第二期】五代綱吉から八代吉宗まで
綱吉・家宣・吉宗には、共通点があった。つまり、前将軍の弟、前将軍の甥という傍流、および御三家の一つである紀伊家といったように、生まれながらの将軍ではなく、外からの将軍就任だったのである。
先にも述べたように、徳川幕府の政治機構は家綱政権期に確立したといわれている。よって、特に将軍自身が積極的に政務に関わらず、あるいは関われず、「権威」としてのみ存在しても幕政運営には影響がなかった。
しかし、将軍自身が政治的手腕を発揮しようとした場合には、すでに出来上がっている政治構造のシステム内では思うようにはやりにくい。綱吉・家宣・吉宗は、まさに自ら政治の舵取りをするタイプの将軍であった。彼らは、その助けとなる自らの側近を必要とした。それが、綱吉~家継の「側用人」(柳沢吉保、間部詮房ら)、吉宗の「御側御用取次」(有馬氏倫、加納久通ら)である。
また、この時期、幕府の公式記録に「側用人」「御側御用取次」という役職名がないことから、彼らは「役職」に任命されたのではなく、将軍との人間的繋がりから成り立っている存在であったといえよう。
彼らの権限を説明するにあたり、江戸城の空間構造から考えると分かりやすい。つまり、江戸城の空間は「大奥」「奥」「表」に分かれている。「大奥」は、女性たちの生活空間、「奥」は将軍の執務・生活空間、「表」は政治・儀式空間である(深井雅海『江戸城』)。
そして、彼らの権限は、奥向のこと(将軍の私事に関する職務)と「裏」の世界(根回しの政治構造)に限られていた。老中を筆頭とする官僚組織とは「裏」において共存したが、表向の政務(江戸城の政治・儀式空間である「表」に所属している役職の者が中心となって行う政務)の部分にその権限を発揮することはできなかった。
つまり老中が、側近ではなく幕府官僚として存在し、「将軍側近」と役割を棲み分けつつ、両者が関わりあい、政治を運営していたのである。
2025.06.03(火)