【第三期】九代家重から十一代家斉まで

 この時期に「御側御用取次」「側用人」が幕府の公式記録の中でも役職名として記されるようになっている。「将軍側近」が「役職」となったのである。

 家重の側近である大岡忠光は、宝暦四年(一七五四)三月一日に御側御用取次より奥兼帯若年寄、同六年五月二十一日に側用人に就任している。これ以降、御側御用取次と側用人が共存する、二種類の「将軍側近」がいる時代となった。

 また、側用人の多くが若年寄や奏者番兼寺社奉行から就任し、側用人退任後に、老中に就任しているケースが多数を占める。五代綱吉政権期以降は、奏者番をスタートに、寺社奉行となり、大坂城代・京都所司代あるいは、そのどちらかを務めてから老中となるのが主流であった。つまり、この頃側用人は、幕府官僚のトップである老中への昇進コースに組み入れられたのである。

 また、側用人は、非常置の役職となっている。つまり、将軍の側近くに必ずいた、これ以前の時期の「側用人」の「将軍側近」としての特徴は、主に御側御用取次に受け継がれ、側用人自体は官僚組織に組み込まれていったと解釈できよう。第二期の「将軍側近」とはその在り方が全く違うのである。

 この頃の側用人として最も著名な人物が十代将軍家治政権期の田沼意次であろう。田沼は絶大な権力を持っていたといわれるが、その背景には、側用人から老中に就任した後も、奥向の御用を務めることを命じられたことがある。このような者に、同じく家治政権期の水野忠友、十一代家斉政権期の水野忠成などがいる。彼らは、その権力の及ぶ範囲が老中としての「表」「裏」に、側用人としての「奥」が加わり、すべてを網羅することになった。よって、絶大な権力を握ることになったのである。

将軍のあり方が変わった

 本書では、この十一代将軍までを、三つの時期に分類して、読み解いていく。十一代将軍家斉の時代を区切りとしたのは、なぜか。それは、これ以降に将軍のあり方が変わってしまったからである。

2025.06.03(火)