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大海原に突然現れる廃墟の島は、異様な雰囲気を放つ

 コンクリートの廃墟に埋め尽くされた島内は、安全確保のため3カ所の見学エリアが決められている。世紀末の世界は、かつてどんな場所だったのだろうか。ガイドの説明に耳を傾けてみる――。

 ガイドの話などによると、端島で初めて石炭が発見されたのは江戸時代後期の1810年頃。佐賀藩による小規模な採掘がおこなわれたのち、1890年から三菱の経営となり、その翌年から海底炭坑として本格的に操業が始まったそうだ。

 出炭量の増加につれ鉱員やその家族が島へ移り住んで人口も増え、埋め立てによって段階的に拡張。炭坑関連の工場や倉庫のほか、住宅も次々に建った。現在も残っている「30号棟」は、日本最古の鉄筋コンクリート(RC)造の高層アパートだ。

 ほかに売店や小中学校、病院、役場、交番、郵便局などの暮らしに必要な施設がそろい、映画館やパチンコ店といった娯楽施設も営業した。そういた建物が島に立ち並ぶ外観が戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれるようになったという。

 そんな解説を聞きながら、島民の暮らしぶりを想像してみるが、目の前の退廃的な風景とのギャップが大きすぎてうまくいかない。そんなときは、パンフレットを見ると、当時のモノクロ写真が掲載され、大盛り上がりの青空市場や水泳大会などの様子がわかる。

 東京ドーム1.3個分という小さな島に最盛期(1960年)は約5,300人が暮らしていて、その人口密度は東京都の9倍だった。ちなみに、鉱員はなかなかの高待遇で、金銭的には豊かな暮らしぶりだったようだ。

 三種の神器(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が全国でまだ貴重だった時代に、島ではほぼすべての家庭で普及。だが、そんな時代を経てエネルギー需要が石炭から石油へと移り、1974年に閉山。今日まで無人島となっている。

 現在は、老朽化や崩落が進み、変わり果てた姿の端島だが、人口の“コンクリート島”であるため、植物が少ないところは今も昔も変わらない。海に囲まれているとはいえ、当時の島民もやっぱり緑が恋しかったようで、住民による緑化活動がおこなわれた。1910年にはアパートのスペースを活用した屋上庭園は日本初の試みだったという。

 ガイドのあとをついていきつつ、あれこれと想像が膨む30分ほどの見学を終え、船に戻った。帰りもデッキは再び、写真を撮る人たちでごった返した。間近で見るのもいいが、海に浮かぶ端島の風景を撮影したいならやはり上陸の前後だからだろう。カメラマンも混雑の真んなかで、いいポジションを確保していた。

 上陸できるか否かは運しだいだが、周遊クルーズとなっても一見の価値はあるだろう。ちなみに、長崎市内にはVRや3Dで上陸体験ができる軍艦島デジタルミューアムもある。ぜひ一度、世界遺産クルーズにトライしてみては?

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2025.03.26(水)
文=一ノ瀬 伸
写真=釜谷洋史