「あ! さっそく脱走しています!」

「本当だ。ミーちゃん!」

 私たちの声に、にゃーっと言いながらミーちゃんは足元にすりよってきた。おとなしくしているので、そのまま抱き上げる。自分で窓を開けてしまうペットがいると聞いたことはあるけれど、まさかその現場を目撃することになるとは。

「とりあえず、沢田さんに返しましょうか」

「そうだね」

 山吹がインターホンを鳴らす。しばらく応答がない。もう一度押そうとしたとき、玄関のなかからドカドカという大きな音と「きゃっ」という小さな悲鳴みたいな声がした。驚いて身をかたくして、山吹と顔を見合わせる。この家、大丈夫だろうか。

 少し警戒し始めたとき、細く玄関が開いた。そこから顔をのぞかせたのは、沢田さんだ。

「あの……ミーちゃん、今まさに脱走しましたけど」

 山吹が伝え、私はミーちゃんを沢田さんに差し出す。

「あ、すみません。ありがとうございます」

 そう言って、ミーちゃんを受け取るためにドアを広めに開けたとき、沢田さんの顔がしっかり見えた。その目元にはアザがあり、鼻には血のにじんだティッシュが詰められている。

「え……おけが、大丈夫ですか?」

 思わず声をかけた。

「あっ……大丈夫です。すみません」

 ミーちゃんを受け取ると、沢田さんはバタンとドアをしめた。

「え……何、どういうこと? 通報案件ですかね?」

「……わかんない」

 家には、沢田さんと息子さんがいるはずだ。鼻血が出ていたみたいだったから、ミーちゃんについていた血は沢田さんの鼻血だろうか。やっぱり、あの息子さんが母親に暴力を?

「どうしましょう」

「とりあえず、明日樺沢さんに相談してみよう」

 樺沢ゆかりさんは、病院のソーシャルワーカーだ。ソーシャルワーカーとは、福祉、介護、医療、教育などを総括的に捉えて支援する職業である。役所との橋渡しもしてくれて、地域との連携にも欠かせない存在だ。樺沢さんは若々しくて溌剌としていて、頼りになる。

2024.11.19(火)
文=秋谷 りんこ