入谷が手を挙げて、
「じゃあ、『すべては愛』ってのは正しくない表現だってことですか?」
と訊く。入谷はいつも発言に躊躇がなくてなんにつけても見切り発車なところがあるけど、いい質問をすることも多い。先生は予期していたかのように「ふふーん」と鼻を鳴らし、
「確かに、『すべては愛』という表現そのものが無意味でばかげているように思えることもあるでしょう。辞書をひいたとき、『愛』の語義に『すべて』と書かれていても困りますね。しかし、それを『正しくない』表現と決めつけるのはまだ早い。だってそう表現をした人は、きっとなにかその人にとって大切なことを言おうとして、その結果として意味のインフレとそれゆえの大暴落が起きてしまったのではないでしょうか。そうだとしたら、そんな発話者の意図を無視して『正しい』『正しくない』を決めつけるのは、ちょっと残酷です。そう思いませんか?」
入谷が唇をとがらせて、小刻みに二度うなずく。考えながら聞いているときの癖だ。先生は続ける。
「たとえば、もし人生のなかであなたが発する言葉について、『辞書的に正しいかどうか』だけを常に問題にされ続けるとしたら、どんな感じがするでしょう。なにか話をするたびに、正確な表現かどうかのみに焦点をあてられるとしたら? もちろん、討論をするときや論文を書く場合であれば、綿密にひとつひとつの言葉の語義を確認し、なるべく正確に読み手に伝わるように言葉を使う必要があります。でも、友達とおしゃべりをしているとき、恋人とかけがえのない時間を共有しているときなんかには、その人が言葉に込めている独特のニュアンスを一所懸命に読みとろうとしたりとか、その人がどうしてその言葉を使うのかを考えてみたりだとか、逆にその人が使いたがらない言葉があればそれがなぜなのか、 相手がこれまでどういう言葉に傷ついてきたのかを考えたりとか、そういった『語義ではないもの』にも気を配ることによって、より親密な対話が成り立つものでしょう。いいかえるなら『ほんとうに正確な語義』は、コミュニケーションの文脈を読みとるという視点においては、人の数だけあるといってもいい。文学作品を読むときは、辞書的に正確な語義を知ることだけでなく、まるで友人や恋人に対するように、本に対してそうした『辞書的な語義ではないもの』に配慮することも大切になってきます。これは、小説を『体験』するうえでとても大切なことです」
2024.06.01(土)