「これらはかけ離れた言葉のようでありながら、それぞれ『何々とはなにか』という問題が長らく問われ続けている点で共通していると思います。戦争とはなにか、国家とは、愛とは、時間とはなにか。そしてそれらはいずれも学問の分野を横断するような、広がりのある多様な議論になっています。悲劇と喜劇については、一見すると文学ジャンルの問題に限られるようにも思えますが、ひょっとしたらそこにまだ私たちの知らないなにかがあるということなのかな、と考えました」
とまとめる。いいことを言ったような気はするのだけれど、僕はついその声に気をとられてしまう。新名の声には風鈴が鳴るような不安定な心地よさがある。風に揺らぐ音をいつまでも聴いていたいような感じだ。枚下先生は大きく頷いて、続ける──
「いいところをつきますね。まず世のなかには、意味がわからなくなりやすいのに、わかっていると思われてしまいがちな言葉というものがあります。新名さんが言っているように、本来なら古今東西その定義についてたくさんの議論がなされてきたにもかかわらず、それとはまた別に無限の多様な解釈が自己主張をしている。湯浦君が『愛』について言ってくれたように、たくさんの人が異なる意味を込めて、しかも日常的にかなりの頻度で使っている言葉というものがある。みなさんは、たとえば『すべては愛』だとか、それに類した表現を聞いたことがあるでしょう。でもほんとうに『すべて』が愛だったとしたら、なにかを名指すという言葉の本来の意義が失われてしまうことになります。テリー・イーグルトン(※3)の言葉を借りるなら、『どんな語でも、もしそれがありとあらゆるものを意味するようになると、その語の明晰な輪郭は失われ、最後にはただのうつろな音となってしまう』でしょう」
かつん、と頭に小石が当たったような感じがして、僕はまばたきする。僕が「曖昧模糊」としか表現できなかったもどかしいものに、先生がすごいヒントをくれた気がする。なにかを名指すという、言葉の本来の意義が……失われてしまう……。
2024.06.01(土)