『われは熊楠』(岩井 圭也)
『われは熊楠』(岩井 圭也)

近著が山本周五郎や推理作家協会賞にノミネートされる等、いま最も注目を集める若手作家の一人、岩井圭也さん。その岩井さんによる待望の最新長篇『われは熊楠』が2024年5月15日に発売になりました。

野放図な好奇心で博物学や民俗学などに偉大な足跡を遺した南方熊楠の、型破りな生き様を描いた本作。

刊行したばかりの本作の魅力を皆さんにいち早く感じていただくべく、冒頭部分を無料公開します。

和歌山に生まれたクマグス少年はいかにして「知の巨人」となったのか? 故郷の山野を駆け巡り、己の行く先を見出してく。ワクワクの冒頭をお楽しみください。


第一章 緑樹

 和歌浦には爽やかな風が吹いていた。

 梅雨の名残を一掃するような快晴であった。片男波の砂浜には漁網が広げられ、その横で壮年の漁師が煙管を使っている。和歌川河口に浮かぶ妹背山には夕刻の日差しが降りそそぎ、多宝塔を眩く照らしていた。

 妹背山から二町(約二百十八メートル)ほどの距離に、不老橋という橋が架かっている。紀州徳川家の御成道として、三十数年前に建造されたものであった。弓なりに反った石橋で、勾欄には湯浅の名工の手によって見事な雲が彫られている。

 その雲に、南方熊楠はまたがっていた。

 齢十五。絣の浴衣は腰の辺りにまとわりついているだけで、もろ肌が露わになっていた。肩や腕の筋肉は盛り上がり、普段からよく身体を使っているのが一目でわかる。坊主頭には大粒の汗が浮かんでいた。

 中学は無断欠席している。こんな晴天の下、校舎に閉じこもってくだらぬ授業を聞いているなどもったいない ――というのが、当人の言い分である。

 熊楠は金盥にぐいっと顔を近づけ、こぼれ落ちそうなほど目を剝いていた。一匹の蟹が、視線の先でうごめいている。一寸ほどの身体を海水に浸した手亡蟹は、不釣り合いに大きな右手の鋏をひょこひょこと動かしている。甲羅や足は黒いが、一際大きな鋏だけは白い。この蟹はつい先刻、不老橋のたもとで捕まえたばかりだった。

2024.05.28(火)