そういう次第で、熊楠は何かと癇癪を起こした。寺子屋で学友に反吐を吐きかけ、店先に並んだ鍋を殴打して傷物にし、叔母に教わった謡曲をがむしゃらに謡いながら往来を歩いた。近隣の人びとから奇異な目で見られたが、それよりも、声をかき消すほうが熊楠にとっては大事であった。

 熊楠はだんだんと、己が怖くなっていった。己のなかには、熊楠でない熊楠がいる。だが平穏に過ごしているところを見るに、どうやら他人はそうではないらしい。つまり、己は異常なのだ。この声は神仏か、あるいは物の怪か。

 ――いったい、我は何者なんじゃ。

 事あるごとに癇癪を起こしながら、熊楠は我という存在への謎を初めて抱いた。

 雄小学校に入ってしばらくして、熊楠はあることに気が付いた。何かに没頭している間は声が聞こえないのである。『三花類葉集』を夢中で読んでいるとき。巣から這い出る蟻の行列を凝視しているとき。手習いに熱中しているとき。己の内から湧いてくる声はふっと消え、静寂が訪れる。

 ――これは、いかな道理じゃ。

 熊楠はこの不思議な現象について、ありったけのお頭を使って考えた。声は熊楠の思考の隙を縫うように鳴り響く。しかし集中している間は、思考の隙がぴたりと埋められ、声が這い出る余地がなくなる。つまり、常時何事かに没頭していれば、このかまびすしい声々は湧いてこない。

 声を静める方法を見つけた熊楠が、勉強に没頭するのに時間はかからなかった。試験の成績は優秀で、ひと頃は神童と呼ばれ、下等小学校の卒業には通常四年かかるところを三年で飛び級した。

 しかし学校の勉強では、声は完全には消え去らなかった。思考の隙間が埋めきれず、しばしば感情を爆発させた。旧士族の子弟から「鍋釜屋の息子」と馬鹿にされれば、大立ち回りを演じた。

 ――瓦の漆喰みたく、びっちり隙間を埋めんならん。

 思考が停滞するのは、知らぬこと、わからぬことがあるせいだ。そう考えた熊楠は、手当たり次第に知識を求めた。草花や動物の名前を知り、生態を知る。鉱石の種類を調べる。民話や伝承を聞いて暗記する。幅広い知識を得るうえで、とりわけ役立ったのは類書(百科事典)である。類書を開けば、聞いたこともない植物、見たこともない動物が無数に現れる。

2024.05.28(火)