――貰てよかったやいて。なぁ?

 それでもしつこく聞こえる声に、熊楠は「そやな」と答えた。赤らんだ顔で本を読み、独り言を口にする熊楠を見て、通りかかった八歳上の兄が気味悪そうな顔をした。長男である兄は生来、学問の類にとんと関心がない人であった。

 以後たびたび、頭のなかで声が聞こえるようになった。前触れのようなものはなく、ふいにわっと声が湧くのが常である。ただし調子の波はあった。ひと月なりを潜めていることもあれば、朝から晩までがなり立てることもある。

 この声は、熊楠の神経をずいぶん蝕んだ。なにせ声はいつも唐突に現れ、蟬時雨のごとき騒音となるのである。

 たとえば、夕餉に刺身が出た夜があった。何の魚か、と思う間もなく例の声が聞こえる。

 ――脂が浮いてうまそうやして。

 ――こがなもん食うたら腹のなかに虫が棲み着く。

 ――そういや、海水浴で捕まえた小魚はなんちゅう名前やったか。

「やかましい!」

 うるささに耐えかね、膳の前で叫び出した熊楠に家族はぎょっとする。父や母、姉は困惑顔をし、兄は鬱陶しそうに熊楠を睨む。幼い弟や妹は次兄の怒声に怯えて泣き出す始末。そこにまた声が言う。早うに飯食いぃな。退屈じゃのう。お父はんの顔見てみ、面白い顔じゃ。

「消えちゃれ、消えちゃれ!」

 ついに熊楠は喉が嗄れるほどの勢いで絶叫し、畳の上にひっくり返って泣き出した。じたばたと踏み鳴らした足が膳に当たってひっくり返り、椀や皿が宙を舞う。魚の切り身が父の額にぺたりと貼りつき、兄の頭髪に飯粒が降りそそぐ。汁物や醬油が畳に撒き散らされ、姉の悲鳴と弟妹の嗚咽がこだまする。穏やかな晩餐は阿鼻叫喚へと一変する。

 このようなことが再々あり、家族からの評価は定まった。

「熊楠はどえらい癇癪持ちの暴れん坊や」

 熊楠は内心で反発を覚えた。確かに、泣いて叫んで暴れれば、癇癪持ちと言われても仕方ない。しかし耳元でいきなりがなり立てられれば、誰でも同じ反応をするのではないか。考えつつ、熊楠は口にはしなかった。そんなことを主張したところで、誰にも理解してもらえないだろうと幼心に思ったからだ。

2024.05.28(火)