「わたしたちにとって、高峰さんは映画館に行くといる、言わば世の中の一部みたいな存在だったのですよ」
そう語るのは作家の故・井上ひさし。高峰秀子との対談(『映画をたずねて 井上ひさし対談集』ちくま文庫)での発言だ。じっさい、日本映画全盛期における女優・高峰秀子の輝きは、比類ないものだった。
生涯の映画出演本数は三百本以上。しかも後半は成瀬巳喜男を始め、木下惠介、五所平之助、豊田四郎、野村芳太郎など名匠巨匠と組んで、日本映画の量と質を支え続けた。
たとえば成瀬監督との初仕事となった「秀子の車掌さん」(一九四一)。業績不振の田舎のオンボロバスで、健気に車掌を務めるおこまさんが高峰の役どころだ。白いおでこを出して、にこやかに微笑む高峰秀子はまだ十七歳。五歳にして映画界入りして以来、すでに出演本数は七十本以上を数えていた。
その可憐さと輝きには一点の曇りもないように見える。しかし、このとき彼女の細い肩には義母を始め、一家が経済的に負ぶさっていたことが、この選集を読めばわかる。「天才子役」は大成しない、との業界のジンクスをうち払って、みごと女優として大輪の花を咲かせるまでに、いかなる「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」があったか。母親との軋轢(あつれき)を始め、自分の心のうちにあったものを、驚くほど率直に語る文章スタイルから、その一端に触れることができるのだ。
本書をきっかけに『わたしの渡世日記』『コットンが好き』『おいしい人間』『にんげん住所録』等々に手を伸ばしてほしい。いまでもほとんどが文春や新潮など各文庫で読めるから。
とくに最初の著作『巴里ひとりある記』(一九五三、映画世界社刊/現在、河出文庫)は、まだ海外渡航が珍しかった時代に、パリへ渡った体験記だが、見たこと聞いたことを生き生きと自在に語り、みごとだ。随筆家・高峰秀子の誕生と女優としての再出発を告げる記念碑と言える。
それにしても、これほど多くの著作を執筆できたことは驚異だ。そこで、疑いを持つかもしれない。ゴーストライター(陰の執筆者)がいたのではないか? と。疑問はもっともなことで、当時、歌手や俳優が出す本のほとんどは、記者や作家の卵が代作するのが普通であった。
2024.05.19(日)
文=岡崎 武志(書評家)