その日、叔母に手を引かれて散歩していた熊楠は、隣家の軒先に紐で縛られた反古のようなものを見つけた。よく見れば、その反古には五弁の花の絵が描かれ、文字らしきものも記されている。厚みから、紙束が書物の類であることはわかった。
己の内から湧き起こる明瞭な声を聞いたのは、その時だった。色のついた煙のようなものから、ぱっと言葉が生まれた。
――あれ、欲しなぁ。
いったん言葉になると、他の煙も次から次へと言葉へ変わっていった。
――捨てられるんやから、貰たらええ。
――しょうない。そがなもんどうする。
――どうするかは貰てから考えたらええ。
突如、頭のなかで話しはじめた声の群れに、熊楠は恐れおののいた。耳元で数十人の子どもに喚かれているような心持ちになり、熊楠は叔母の手を振り払って、両手で耳を塞いだ。それでも声は消えず、泣き喚いた。
「なんや、どないしたん」
おろおろする叔母を前に、熊楠は軒先を指さした。指の先に紙束があることに気が付いた叔母は、「貰てきちゃろか?」と言った。熊楠は泣きながら頷いた。どうしてそんなものが欲しくなったのかわからない。ただ、内側からの声を聞いて初めて、己は書物が欲しかったんや、と気が付いた。自分専用の書物を手に入れるのはこれが初めてであった。
熊楠は隣家からもらった本を抱え、部屋に入ってうきうきした気分で開いた。それは躑躅や皐月の品種解説、ならびに栽培方法が記された『三花類葉集』であった。そこには初めて目にする花や葉が記されていた。幼い熊楠はまだまともに文字を読むことができなかったが、絵図を眺めているだけで胸が躍った。和歌山の庭では見たこともない植物に、両の目が釘付けになった。
――一生かけてもよう見やんもんを、これ一冊で見れる。
未知の知識が、大挙して頭のなかに流れ込んでくる。幼い熊楠はその渦の真ん中で陶然としていた。全身の血が逆流するような興奮に突き動かされ、書物をめくった。脳内の声々はいつからか静かになっていた。
2024.05.28(火)