また、身体に欠損のある男、去勢された宦官、俗世界から距離を置いた僧侶という人物を選んだのは、「権威の一面として、男性性があると思っていました。働いている頃、ホモソーシャルな狭い組織の中で男性自身も生きづらそうだと感じていたんです。やせ我慢は本当の強さではないし、辛い時は辛いと言っていいんじゃないか、というところは書きたかったです。それで崔子龍や宦官のように狭い世界で生きづらさを抱える存在と、僧侶という不羈(ふき)の世界にいる存在を出しました」。

 夏蝶や、出番は少ないが三日月の形の傷を持つ女将も強さを秘めていて魅力的だが、「女性がすごく強かったことも、私がこの時代を好きな理由です。この頃はまだ女性も馬に乗る時に跨っていたんですよ。唐のあと次第に纏足の時代に入り、女性は走れなくなるし、馬に乗る時も横座りするようになるので」とのこと。

 こうした登場人物たちが各々の信念をもって、国が傾きかけた時に行動を起こす。国を乗っ取ろうとする者、立て直そうとする者、陰で操ろうとする者、糺そうとする者――。誰が正しく、誰が間違っているとは言いきれない。個々の立場によって正義は異なり、単純な善と悪の二項対立では説明できないのだ。そのなかで、人民のために行動するとはどういうことか、真の政治とは何か、権力とは何かを問いかけてくるのが本作だ。再び著者のコメントを引くと、本作で描きたかったのは「英雄」だという。「自分にとっての英雄とはなんだろうと考えた時、自分を大切にできる人だな、と思った」と。

 作中、辺令誠はこう語る。

「英雄などと権力に一石を投じているようで、力の(しもべ)そのものだ。そして、美徳として語られる英雄への忠心や群れに対する自己犠牲が、群れと群れの衝突を起こす」

 この言葉には、力で圧する英雄や、自己犠牲をともなう英雄的行為を否定する著者自身の思いもこめられている。では、描きたかったのはどのような「英雄」なのか。それは、真智が語っている。

2024.04.17(水)
文=瀧井 朝世(ライター)