このありえない夏の日の雨の記憶は美しいが、その情景が即座に「レゴブロックみたいにくずれだして」しまうのは、おそらく、この場面全体がアイソレーション・タンクのなかで眠る「阿部和重」の夢だからである。孤立した人間の反復は不毛だ。自分の性器を自分で擦るだけの反復からは新しいものが生まれない。阿部にとっての伊坂や蓮實のように、「阿部和重」にはアメリカ人ラリー・タイテルバウムが必要なのだ。『Orga(ni)sm』の終盤でラリーは、任務よりも三歳の映記を守ることを優先し、そのために狙撃されて倒れる。

 そこへ駆けよっていった阿部和重は、わが子の名を呼ぶより先に血まみれの中年男の名前を連呼し、ふらついている相手に両手をさしのべて今にも倒れそうな体をささえてやった。

「ラリーさん? ラリーさん?」

「Okay, okay」

「ラリーさん」と「Okay」の反復は一目瞭然だが、ラリーの返答が全角アルファベットの「OK」ではなく半角の「Okay」であることを見逃してはならない。日本語の達者なラリーとは違って、「阿部和重」にはネイティブスピーカーと話せるほどの英語力はない。だからラリーが「阿部和重」のまえで英単語“okay”を使うとき、つねに日本風の縦書きで「OK」と書かれるが、『Orga(ni)sm』全体でここだけはそれが「Okay」になる。これは、日本人とアメリカ人が、お互いの差異を消すことなく、日本語と英語のままで実現させた対話なのだ。それは奇跡と呼ばれるに値する。

『Orga(ni)sm』の最後では、二〇四〇年、かつて日本と呼ばれていた国がアメリカ合衆国の五一番目の州となってから一〇年が経過していることが語られる。「七二歳になっても英語力の向上が見られない阿部和重」が、カリフォルニア州バーバンクにむけて車を走らせていると、「かつてハリウッドサインと呼ばれていた看板」は、「HOLLYWOODのLがひとつ抜けてHOLYWOODになってしまっている」。それは映画を愛する(元)日本人、つまり阿部和重のような人物の仕わざに決まっている。地名Hollywoodを「神聖な森林(holy wood)」と誤解して「聖林」という当て字を用いた日本人は、こうしてアメリカを内側から変化させて融合する。この場面には、ルビ付きで「聖林(ハリウッド)」という表現を用いた蓮實重彦『伯爵夫人』の記憶が流れこんでいるのかもしれない。それはそれとして、『Orga(ni)sm』の締めくくりに阿部が引用した「夜明けを見るまで生きられますように」という願いをこめた言葉を読んだ瞬間、ひとは、疾走を続けるこの小説家のデビュー作が『アメリカの夜』だったことを思い出す。アメリカのみならず世界をつつむこの暗い夜の終わりを目撃するには、我先に阿部和重の車に乗りこむしかない。そして、阿部和重のすべての小説を読んでは読み返しながら過ごす、長い長い旅に出るのだ。

2023.02.27(月)
文=柳楽 馨(文学研究者)