こうも反復の多い阿部作品は、『Orga(ni)sm』が最初で最後かもしれない。ママである「川上」が留守なので、まだ三歳にもならない映記は「パパー、パパー、パパー、パパー」とひたすら「阿部和重」を呼ぶが、こういった反復ならこれまで通り、喫緊の事態を告げる警報に似た言葉とみなせる。『シンセミア』の小悪党・金森年生が再登場して、『Orga(ni)sm』終盤では「みつあきぃ、みつあきぃ」と悲しげに息子を呼ぶ。それは『ピストルズ』の菖蒲みずきとともに、ひそかに「オバマ大統領」を狙う少年・田宮光明のことだ。父と息子のどちらがどちらを呼ぶのかなどの違いはあるが、これらの言葉の反復はまだ理解できる。しかし、「電話が鳴って目ざめたが」のような語句までがなぜ反復されるのか、いまひとつわからない。
以下はあくまでも仮説だが、『Orga(ni)sm』に先だって、阿部が伊坂幸太郎との合作で『キャプテンサンダーボルト』を書き、そして蓮實重彦の『伯爵夫人』の批評を書いたことがヒントになる。『Orga(ni)sm』を書くにあたり、「自分以外の著者の言葉に深くかかわること」が大きな助けになったと阿部は語っている。その『伯爵夫人』論で阿部は、たとえば歯ブラシで歯を磨くときのような「異種同士による摩擦運動」に注目した。なにかとなにかがゴシゴシと擦れあう運動もまた「反復」の一種であり、ここで性交が想起されるのは偶然ではない。現に阿部は『シンセミア』で、男性器を意味する「魔羅」を、「摩擦」の「摩」で「摩羅」と書いていた。阿部は、反復することで、ふと何か反復しえないはずのもの、ほんとうに新しい一度きりのなにかを生み出そうとする。反復しえないものの反復とは、たとえば、ありもしなかった出来事が過去の記憶としてよみがえることだろう。『Orga(ni)sm』の「阿部和重」はだしぬけに、「そういえばあの日も雨だったと思いだす。笑い疲れてベッドから起きあがれず、薄暗い静かな部屋で雨音を聞きつつじっとしていた夏の午後の情景がよみがえる」。しかし『Orga(ni)sm』のどこにも、この雨音の響く夏の日がいつだったのかを示す記述はない。その日が何年何月何日の何曜日かまで書いてしまう阿部らしからぬ例外的な「あの日」は、何度読んでも私にとって『Orga(ni)sm』のもっとも印象的な箇所のうちのひとつだ。今回、文庫版で改めてこの箇所を読んで私は、青山真治『サッドヴァケイション』のなかで、大降りの雨の朝に部屋の窓の外へと手を伸ばした浅野忠信が、ともに暮らしはじめた中国人の少年に「雨」や「空」といった単語を教える場面を思いだした。ただの感傷かもしれないが。
2023.02.27(月)
文=柳楽 馨(文学研究者)