東京・浅草に実在する古物店「東京蛍堂」を舞台にした映画『ゆめのまにまに』に主演する、こだまたいち。独特な雰囲気を放ち、俳優、ミュージシャン、モデルとしての顔も持つ彼のキャリアを振り返る。

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●12歳でアコギ片手に曲作り

――幼い頃はどんな夢を抱いていたのでしょうか。

 小学校低学年のときは、「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたら、「大きくなったら小さくなる」って言うようなあまのじゃくな子でした(笑)。シンプルに大人になりたくなかったんだと思います。その後は、「忍者ハットリくん」の影響で、「忍者になりたい!」と思うようになりました。でも、あまのじゃくな性格なので、ハットリくんじゃなくて、ライバルのケムマキの方が好きでしたね! 声変わりする前は歌が上手くて、おじいちゃんに連れられて行ったスナックとかで歌っていましたね。

――12歳のとき、お兄さんからギターを教えてもらい、作詞・作曲を始められたそうですね。

 ある日、兄が音楽の先生からアコースティックギターを譲ってもらったんです。兄が弾いている姿を見て、「僕もやりたい!」と思い始めて。時々、鼻歌をテープレコーダーで録音していて、その延長みたいに曲を作っていました。簡単なコードを教えてもらっただけで、なんとなく曲を作れていた。今振り返れば黒歴史なんですが、「神様、どうして僕は生まれたの?」みたいな歌詞を付けていました(笑)。

●実兄とのバンド活動からモデルの道へ

――その後、大学進学で上京するまでの間、バンド活動はされていたんですか?

 中学のとき、文化祭で先生たちのバンドにギターとして交ぜてもらったのが初ライブでした。高校生になって、軽音楽部に入って、ギターとヴォーカルを担当していたんですが、そのときは「抱きしめたい」「アウトサイド・シティ」いう、何処かで聞いたことのあるようなタイトルのオリジナル曲もやっていて(笑)。どちらかといえば、ロックスタイルでした。

――そして、2009年に、ギターを教えてくれたお兄さん(コダマアツシ)とともに、ロックバンド「KODAMA FAN CLUB」(後の「THE TOKYO」)を結成されます。

 最初、僕はフォークの弾き語りをやりたかったんですが、僕より2年先に上京していた兄のバンドが活動休止してしまい、「面白そうだから一緒にやるか?」みたいな流れになったんです。それで兄とライブハウスに出るようになりました。

 その一方で、美容師さんにスカウトされてカットモデルをやっていたんです。それで、ある美容師さんから「メンズノンノ」の専属モデルオーディションを受けるように勧められました。

――モデルのオーディションを受けるというのは、ご自身にとって意外な展開でしたか?

 昔から映画やドラマが好きで、俳優さんに対する憧れみたいなものはあったんです。映画『アイデン&ティティ』に出られていた峯田和伸さんを観て「ミュージシャンも俳優をやるんだ!」と刺激を受けたのですが、まさか先にモデルになるとは思ってもいませんでしたね。当時はファッションにあまり興味がなかったですから。なので、勧めてくださった美容師さんには「応募します」と言いながら、いつの間にか締め切りが過ぎていて、履歴書を送りそびれました。1年後の2012年に、また勧められ、ようやく送ったら受かったんです。

2022.11.11(金)
文=くれい 響
写真=平松市聖
ヘアメイク=寺沢ルミ