異論を認めたうえで対話を重ねる姿勢が大事
――エリイさんと聖書の関わり方を読んではっとしたんです。聖書における男尊女卑や時代遅れは目も当てられないとしながらも、日常に寄り添える部分を抽出して味方としている。気に食わない箇所や間違っている点は無視するという態度もいいなぁと思いました。切り捨てるのではなく1対1の関係として付き合っていく態度というのは、現代の人間関係において学ぶべき部分でもあるなと。
もう次の時代になっていると思いますよ。誰かと敵対したり、相手を切り捨てることは簡単だったし流行っていたと思うんですけど、もう今やその次のステージに行っている。考え方やスタンスは違うっていっても、分断して終わりではなく、そのあともダイアローグを続けていくこと。立場や価値観によるすれ違いがあったら「もうそれでさようなら」なんて、少し前じゃないですか?
――異論を認めたうえで対話を重ねる姿勢ですね。Chim↑Pomの活動の中でも随所で「対話」を続けられてきたことは、現在森美術館で開催中の「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」でも感じられました。
対話をすることによって私が新しい知識を得たりすることもあるじゃないですか。そうすると自分の考え方が更新されていくんですよね。知らなかったことを知る、いい機会でもありますし、受け入れられなかったとしても考えるきっかけになったりする。どんどん時は流れていくので、ずっと同じということはないんだと思うんですよ。自分の考えひとつも、今日考えていることは明日になれば変わっているかもしれないし。
――聖書が身近にあったということですが、エリイさんは「神」とどう付き合ってこられましたか?
カトリック系の学校に通ってキリスト教の考えを叩き込まれていたので、一神教のなかで育ったんですよ。それが私のエクストリームさを生んだと思っています。究極までやるのが神。絶対的な神という存在からエクストリームさを学べたのは、いい経験でした。物事の100%を知れたというか。これまではChim↑Pomの作品も神によってつくられたという意識があったんですが、友達に「神はいないよ」と言われて以来、「え、じゃあ全部私がやってたの?」みたいな気持ちに今ではなっています(笑)。
――聖書には「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」という記述がありますよね。「なまぬるいことをしない」ということを、行動の指針とされているようにも感じました。
たまにぬるっとしちゃいますが、そうするとやはり心にはバレるんですよね。
――今の世の中を見回して、なまぬるいと感じることはありますか?
現在、森美術館で回顧展を行っているんですが、実は企業とやることって私たちはほとんどないんですよね。森美術館は国立の美術館ではなく、森ビルの芸術・文化事業の一部なので。はじめてがっつり企業と取り組む経験をしたのですが、やはりそこには旧社会を感じるんですよね。トップの独断でいろんなことがコロコロ変わっていくというのを体感できたのはいい経験でした。
今回の展示は、社会に介入していくChim↑Pomにとっては、すごい面白い試みだなと当初から思っていたんです。一人ひとりはすごくいい人たちなのに、そこに権力が介在するとズレていってしまうんだ、ということも実感できました。
――今回の回顧展は、歴史や文化に触れるという美術館本来の「展示室」的な役割とは別に、制度批判や表現領域の拡張性も感じられ、自由な空間になっていたなと感じました。「よかった」「わるかった」とジャッジするために美術館を訪れる人もいますが、たくさんのクエスチョンを自然と持ち帰れて、いろんな角度から物事を考え続けられるものになっていたと思います。でも、そこに至るまでにも「戦い」はあったんですね。
2ヶ月前までは本当に開催されるかわからなかったぐらいです。表現の自由を損なわれたということがあって、美術館としてそこは検閲だったのではないかという思いもありました。でも、それをわかっている上で、美術館で展覧会をやるということもあるじゃないですか。さきほどの分断の話ではないですけど、「じゃあやらない」だと何も生まれないんですよね。
お互いの立場や理想を理解した上で、どういう対話が生まれていくのか、何が改革されていくのかが大事なのだと思います。双方の話を深めることで、前進していく感じはありました。
出産という経験を経て考える「生」と「死」
――実際に起きたことを残すこともアートなど文化の大きな役割のひとつですが、著書執筆のタイミングでコロナ禍や出産という大きな出来事が起こり、それを文学として残せたという奇跡も大きいと思います。
これが残ってくんだろうなという意識はありました。どういう形として残っていくかわからないですけど、私が死んだ後にも誰かが読んでくれると思うとめっちゃウケるなと思います。これから先の未来には「分娩台」なんて無くなるかもしれないじゃないですか。2020年って「分娩台」なんてあったんだ、というようなさまざまなことが記録になって、未来の何につながるんだというとおもしろいですよね。
――『徒然草』で700年前の生活を感じられたように、時代の空気を読み取るのも文学のおもしろさですよね。表紙のイメージビジュアルやタイトルからも「出産」は著書において大きな意味を持っていると感じます。ビジュアルは最初から決めていたのですか?
ちょうど展覧会をやっていたのもあり、作品の前で撮りましょうということになりました。その作品は中から発光する4メートル40センチの風船に、妊娠中の私のおなかの中のエコー写真を模したもの。そのとき私はずっと赤ん坊を連れていたので、じゃあ一緒に撮りましょう、という流れになりました。
――「新潮」での連載時は「OH MY GOD」というタイトルでしたが、それも変えられましたよね。
ずっと変えようとは思っていたんですよね。編集の方含めすごく考えてました。「赤い方舟」とかいろんな案を黒板につらつら書いて、あーでもないこーでもないと検討しました。でもやっぱり「はい、こんにちは」ってパワーワードだなと。すべてはここに尽きるなと思うんですよね。
――すべては挨拶からはじまる、ということでしょうか?
というか、私の中ではビッグバンみたいなイメージがあって。出会って、即「はい、こんにちは」じゃないですか。なんでも。それがなければ物事の第一歩は踏み出せないんですよね。すべてにおける第一歩のための、最初の衝撃に近いものなんです。私の感覚では。
――私たちは死を忘れることで日常生活を安定させているところがあると思うのですが、出産を経て「私は完全なる死を産んでしまった」と表現されていた箇所にもドキっとしました。エリイさん自身、何度か入院されたりと「死」と接触する機会はあったと思いますが、エリイさんの死生観も気になります。
子供の頃から「死」がまとわりついているんですよね。明日生きていないかもしれないという感覚が子どものころからありました。あと、ここで飛び降りたら人って死ぬんだとか「死」を想像することも多かった。
――でも、怖がっていないですよね。
経験したことがない分、楽しみというのはありますよね。出産もそうでしたけど、何にでも体験したらどうなるんだろうという気持ちはあるんです。「死」も、死ぬときってマジどんな感じなんだろうと思うことはあります。でも、今は死にたくないし、死んだら嫌だな。人生ってめっちゃ楽しいから! どうせいつか死ぬんだからもっと体験したい。
――「死」と対極の「生」の価値観も変わってきていますか?
とにかく「生きる」ということを考えると、「みんな生まれてきたんだ!」ということを思うんですよ。かつては全員赤ん坊として生まれてきたんだ、みたいな。そうすると、やさしい気持ちにはなりますね。やさしい気持ちというか、この人マジで意味わかんないけど「生まれてきました」みたいな(笑)。どんな人でもそうですもんね。その後の生き方は別として。
2022.03.18(金)
文=綿貫大介
写真=平松市聖