アーティストの雰囲気をまとっていた本木
その後、シブがき隊は1988年に解隊するのだが、解隊した後の本木の活動がやたらとかっこよかった。
当時は1983年にデビューしたチェッカーズや、1984年デビューの吉川晃司の人気によって、アイドルよりもアーティストが注目されていた時期であった。
かつてのアイドルたちも、菊池桃子のように突然バンドで楽曲を出したり、小泉今日子が当時珍しい12インチシングル(DJが使用することを目的としていた)をリリースしたりと、アイドルがアーティストのような活動をすることが多くなっていた時期であった。
シブがき隊ではなく、一人の俳優、歌手となった本木は、自然とアーティストの雰囲気をまとっていた。
マドンナを先行していた本木の性表現
鮮明に覚えているのは、当時はまだ瓶や缶に入った甘くない飲み物を買うという習慣がほとんどなかった時代に、ジャワティストレートという飲料のCMに出演。
マドンナが1990年にリリースした「ヴォーグ」という楽曲のミュージックビデオで広く知られることとなった「ヴォーギング」というダンスをいち早く取り入れ、CM内でさまざまなファッションを身に着けて踊る本木は、日本でもっとも先頭を走るタレントに見えた。
当時の本木は、ジェンダーレスな雰囲気もまとっていた。
本木の活動でほかにも思い出されるのは、男性としては珍しいヌードの写真集『white room』を刊行したことであるが、これもアーティスティックな写真集であった。
さきほど話題に出たマドンナも『SEX』という写真集をその当時発売している。
この写真集の影響によって本木や宮沢りえの写真集が出たのかと思いきや、マドンナの写真集は1992年、本木の写真集は1991年であった。
当時は性の話題や表現自体にタブーが存在し(今ももちろんタブー視はあるが性質が違う)今とは違う意味合いで、性を開放しようという空気があったのだと思われる。
1992年には、井上陽水のカバー曲「東へ西へ」をリリース。
日本のフォークソングの名曲を現代風な解釈でアレンジするという試みは、今では当たり前であるが、当時はサンプリングをしたり掘り起こすのは洋楽というイメージがあり、そのこと自体が新たな試みであった気がする。
もっと驚くべきは、その「東へ西へ」で1992年のNHK紅白歌合戦に出場した際には、コンドームで作ったネックレスを身に着け、強めのメイクをほどこし、モードなスタイルで熱唱。
そこには、AIDS撲滅の意味合いもあったという。
こうした、彼のスタイルを貫いた活動があったからこそ、本木はアーティストの影響力が大きくなった時代を、独自の路線で走り抜けたのだと思う。
2020.02.29(土)
文=西森路代
写真=文藝春秋