そしてジャズの魅力に開眼…

近田 女優としては、どんな作品に出演なさったんでしょう。

湯川 肝心の『冬の旅』は製作には至らなかったんですが、今井監督の『ここに泉あり』と、山本薩夫監督の『太陽のない街』などに登場しています。

近田 そこから、音楽評論家へと転向するわけですが、いわゆる洋楽に興味を抱いたのは、何がきっかけだったんですか。

湯川 はい。銀座の松屋の近くに「金馬車」という大きなキャバレーがあったんですが、夕方まではダンスホールとして営業していたんです。そこで私をナンパした大学生の男の子が、有楽町にあった「コンボ」というジャズ喫茶に連れて行ってくれて。

近田 そこで、ジャズの魅力に開眼したと。

湯川 そうなんです。そして、ジャズ雑誌「スイングジャーナル」に投稿したウェイン・ショーターに関する文章が掲載されて、評論家への道が開けました。

近田 それが何歳の頃ですか。

湯川 23歳になっていました。2回ぐらい投稿が採用されたら、ファンレターがたくさん寄せられたそうなんです。当時、ジャズの雑誌にはほぼ男性読者しかいなかったんですが、そこに、「湯川れい子」という女の名前だし、書いてるものも若そうだしってことで、編集部員の岩浪洋三さんから一度会いたい、という電報が届いたんです。

近田 岩浪さんは、「スイングジャーナル」の編集長を経て、後に高名なジャズ評論家になりますよね。

湯川 そうなんです。大変な方でした。そして、1961年のお正月に、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが来日公演を行うからと、アート・ブレイキーへのインタビューをいきなり依頼されたんです。

近田 展開が速い! 本場のジャズメンに会うのは、もちろん初めてでしたよね。

湯川 ええ。当時はまだ、カセットテープなんかなかったから、三軒茶屋にあった「緑屋」というデパートで大きなオープンリールのテープレコーダーを24回払いの月賦で買って、取材場所に持ち込みました。

近田 「ホームビルの緑屋」ね、懐かしいなあ。「丸井」同様の月賦制の百貨店でしたよね。「緑屋」三軒茶屋店は、「ams西武」を経て、今、「西友」になってますね。ついでにいうと、渋谷店だったビルは、現在は「ザ・プライム」。

湯川 よくご存じですね。アート・ブレイキーへのインタビューは、あらかじめ、うちに下宿していた一橋大学の優秀な学生さんに英語で質問を考えてもらって、インタビューに臨みました。後で録音を聞き返してみると、相手がまだ答えを考えている途中に私が次の質問に移ったりして、つたない限りでしたけれど(笑)。

近田 アート・ブレイキーはどんな人でした?

湯川 「あの、本当に僕のようなものでもいいんですか」とか、「僕なんか、、そんな丁寧な言葉遣いをしていただかなくて結構です」とか、大スターなのにものすごく腰が低くてびっくりしました。黒人への差別に対して、敏感に反応していらしたんだなあと思います。

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