『東京の台所』取材、まぼろしの第1回目が発覚!

――前篇でも子どもの頃のお話をうかがいましたが、もう少し聞かせてください。小さい頃の食生活は、どんな感じだったのですか。

大平 台所に立つということがまるでなくてね、興味も持たなかった。というのも母は料理上手で、勉強熱心なんですよ。父は公務員で転勤も多く(※大平さんは高校卒業までに生まれた長野県内で長野市、松本市、駒ケ根市、宮田村、伊那市と移り住んだ)、その行く先々で母は料理上手の人から習って、勉強メモが冷蔵庫に貼ってるような人。

――「お手伝いして」なんて、言われませんか。

大平 母はあまり手伝ってもらいたい人じゃなかった。今でもそうなんですが、母が作ったものをあたしが盛ろうとすると「そのお皿、ちょっと違う」なんて言うのね。盛り付けの最後までこだわりたい人で。

――就職されて、ひとり暮らしを始めた頃の食生活はどうでしたか。

大平 20代ではお米、3回ぐらいしか研いだことないです。編集プロダクションの仕事が終電ぐらいになるのも普通でしたし。

――大平さんは80年代後半、出版業界に入られたんですよね。最高に雑誌文化が華やかな頃。忙しい中、食事は外食やテイクアウト中心で?

大平 完全にそうでした。たまーにやっても、使い切れなくて食材を腐らせちゃうし。料理ってものが全然身近になかった。あ、でも台所に関して忘れられないことがあったの、当時!

――ど、どうされましたか。

大平 粗忽者だからさ、当時もう何回も会社に家の鍵を忘れちゃってたのよ。終電で帰るからもうどうしようもなくて!

――会社は遠かったんですか、当時。

大平 綾瀬に住んでて会社は四谷三丁目で。どうしよう……と思ったとき、窓が開いてるって思い出した。夜分だったけど隣の方にピンポンして事情説明して、「すいません、ベランダ通らしてください……!」ってお願いしたんです。

――それ、もう終電がないぐらいの時間なんですよね(笑)。

大平 そうそう、しかもそういうことが3回も続いちゃったんです(笑)。

――鍵忘れが3回続いた! お隣は女性の方ですか。

大平 はい、ひと回りぐらい上の方。アパレルにお勤めで、やさしいお姉さんでした。彼氏がベッドにいるようなときまであったんですよ、でも毎回「いいよ、いいよ」って。そのお姉さんがね、料理上手だったのよ。感動したんです、あたしと同じ間取りの台所でも、こんな夢のようにおいしいものが作れるんだ……って。

――どうして料理上手って分かったんです?

大平 そのうち仲良くなって、ごはん一緒に食べるようになったんです。おそうざいなんかよく作ってくれました。自分で自分を養って、切り盛りしている人の料理を味わった初めての経験。「料理ってこういうものか」と思いましたね。ああ、思い出します。ほうれん草のにんにく炒めが本当においしかったなあ……。

――これ、『東京の台所』取材の初回にして原点じゃないですか。

大平 え……そ、そうですね! このことすっかり忘れてて何十年ぶりに思い出したけど、原点だねッ(笑)。ああ……名前を憶えてないのが悔やまれる。エッセイに書きたい。マルイに勤めてる人だったんですよ。

――32年前、綾瀬にお住まいでマルイに勤めてて、鍵をよく忘れる隣人がいたお姉さん、この記事を読まれたらぜひ編集部にご連絡ください(笑)。その後、29歳で結婚されて、30歳で出産してフリーランスになられる。夫さんは料理、されますか。

大平 彼はめちゃくちゃします。助け合って、家事をシェアしながら子育てしてきました。そうじゃないと、やってこれなかったし。でもね、もう夫に作ってほしくないの(笑)。な――んでも砂糖と醤油の甘辛味にしちゃうから。

――いわゆる日本のおかず味ですね(笑)。さて、今後のことを教えてください。大平さんはこれから、料理とどんなふうに付き合っていきたいと思っていますか。

大平 還暦を過ぎて、もうたくさんは食べられない。あたし、ずっと欲張りの食いしん坊だったんだけど(笑)。脂っぽいものも苦手になってきました。残念なことだけど、逆に季節の滋味を味蕾が感じられるようにもなっている。だからね、季節のものを使って、あれこれとおつまみを作れるようになりたい。お酒とのマリアージュを考えられるような。そんな晩酌が、できるようになりたいです。

ちょっと長いあとがき

「今書いておかないと忘れ去られてしまう尊い価値観」を取材したい、とも大平さんは言った。同時に、「書き残しておかないと忘れられてしまうような、美しい日本の言葉も」と。聞いた瞬間、本の中に出てくる「さもない」という言葉が思い出された。

「まえがき」には作家・宇野千代が96歳で著した「私の長生き料理」という本が登場する。野菜のごま和えや素朴な煮ものが紹介され、大平さんはそれらを「さもない料理」と表現したのだった。

「以前何かで読んで、ああいい言葉だな、と書き留めたんです」

 ささやかな、名もなき、なんてことはない、といったニュアンス。

「日本の食卓に並んできたものって、そういうおそうざいだったんじゃないでしょうか」

「さもない料理」が、淘汰されがちな現状がある。必ずしっかりうま味を加えて、コクを付けて、見ばえも気にして……日本の食卓も、大平さんが文筆家として歩まれてきたここ30年でずいぶんと変わった。

「さもない毎日のささやかな尊さ、ってものを書きたくずっと来ている。そういう尊さをみんなが大事にするようになったら、戦争ってなくなると思ってるんです」

 大平一枝さんはさらりと言った。最後の「思ってるんです」が、聞いているとき「信じている」という言葉に聞こえた。ゆるぎない信条があってものを取材している人だけが持つ、強く心地よい響きと共に。

大平一枝(おおだいら・かずえ)

作家、エッセイスト。1964年、長野県生まれ。編集プロダクション宮下徳延事務所を経て、1995年、独立。市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆。

聞き手 白央篤司(はくおう・あつし)

フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに執筆する。主な著書に『にっぽんのおにぎり』(理論社)、『自炊力』(光文社新書)、『台所をひらく』(大和書房)、『はじめての胃もたれ』(太田出版)など。旅、酒、古い映画好き。
https://note.com/hakuo416/n/n77eec2eecddd

台所が教えてくれたこと ようやくわかった料理のいろは

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