「福田一郎先生は先生であり、保護者」(湯川)

近田 ラジオを通じて洋楽を教えてくれたという意味で、僕にとって湯川さんと並ぶ大きな存在が、音楽評論家の福田一郎先生です。僕は大概の人はさん付けで呼ぶんだけど、福田さんだけは、どうしても「福田先生」って呼んじゃうんですよね(笑)。

湯川 私も、ずっと福田先生とお呼びしています。

近田 湯川さんと福田先生の出会いというと?

湯川 あれは、1961年ですね。戦前から続く「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」というジャズ愛好家の会合が、毎月1回、新橋で行われていました。そこには、野口久光先生、植草甚一先生、油井正一先生といった錚々たる大家が揃っていて、福田先生は、その末席に私を招いてくださったんです。

近田 レジェンド的な大先生ばっかりじゃないですか。

湯川 もう、当時、たかだか20代でしかなかった私は怖いもの知らずで、そんな恐ろしいところに座っているのに、平気で足組んでタバコをくわえたら、福田先生がパッとライターを出して火をつけてくださったんです。すると、みなさんの視線がジローッと集まって……(笑)。

近田 さぞかし、生意気だと思われたでしょうねえ(笑)。

湯川 福田先生は、私の先生であり、保護者みたいなものでした。原稿の書き方や、資料の探し方などを基礎から教えてくださいましたから。

近田 そこは興味を惹かれるところですね。インターネットもなければ洋楽雑誌もろくになかった頃、情報はどうやって収集していたんですか。

湯川 横浜や横須賀、御徒町に行くと、米軍の兵隊さんが読み捨てた「Hit Parader」や「Song Hits」といった古い音楽雑誌が露店に並んでいたんです。1部10円ぐらいでしたかね。そういう雑誌を買って、丁寧に読み込みました。

近田 その手法も、福田先生に教わったと。親身にしてくださったんですね。

湯川 はい。私が熱を出した時には、わざわざ当時住んでいた国立の家までいらして、私の枕元に座って口述筆記までしてくださったんです。

近田 優しかったんですね。

湯川 はい。純粋に親切な方でした。そして私の母をとても大事にしてくださったんですね。福田先生は、実のご自身のご両親が誰かをご存じない方だったんです。

近田 それは存じ上げませんでした。

湯川 そこがコンプレックスだったらしくて、その寂しさ、心もとなさは、先生の人生にずっと複雑な影を与えていたように思います。だからでしょうか、私の母に優しくしてもらうのが、すごくうれしかったみたいです。

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