何度も好きになろうとした。でもやっぱり嫌い。

 どうしてこんなに嫌いなものなのに遠ざけないのか、それは熟したアボカドのことを心から愛しているからである。森のバターと言われるにふさわしいあの優しい口当たり、無限に食べることができる。いつかミクロサイズになって、種をくり抜いてできたくぼみにするりと入り込みスコップで掘りながら食べ進めたいと夢見ている。クリーミーな味わいも、醤油やマヨネーズ、チリソースなど味の変化にも自分らしさを残しながら、機敏に対応してくるスマートなところも一目置いている。そんな感動をつい追い求めてしまう。しかし熟していないアボカドが現れると、たちまち気の進まない食卓になる。それでも美味しく食べたい、こんなときの打開策を見つけてやると、薄切りにしたり潰したり形状を変化させ奮闘したこともあった。でもやっぱりあの甘美な瞬間は訪れない。熟したアボカドに心酔するがゆえに、熟していなくてもどうにかして好きになりたかった。元は同じなのだから、きっと違う魅力も私は好きになれると長年信じ続け、何度も好きになろうとした。でもやっぱり嫌い。

 本当に憎い。この世でいまのところ一番憎い。苦手と思えるものには、いいところを見つけて好きになれる可能性が残っているけれど、熟していないアボカドだけはどうしたって好きになれる要素が見つけられない。自分自身がこの先変化したら好きになれるかもしれないという希望的観測もない。こんな気持ちになるのなら避けたらいいのに、まだ何かを期待して接触を試みる自分も憎い。ああ、パンドラの箱が開いてしまう。いつもの思考からすると、熟していないアボカドを好きな人もきっといる。だからそんなことを思っちゃいけない! と苦手という言葉の中に収めることができるのに、これだけは申し訳ないができなかったのである。書き進めていて思ったことがある。いつの間にか私は好きと嫌いは表裏一体の渦中に迷い込んでいないだろうか。可愛さ余って憎さ百倍みたいなことになっている。「今の私は真正面から好きだと思うものに気持ちを向けることで手一杯で……」などと涼しい顔をしていた先ほどの自分を疑う。あの複雑な気持ちが自分の中に芽生えてしまったことに困惑と少しの嬉しさが込み上げ混乱する。いっそのことただひたすらにアボカドの全てを嫌いでありたかった。

 思い通りの感触に出会えないと憤りを感じてしまう。大好きなときのことを考えれば考えるほど、そうじゃないとわかったときの嫌悪感が狂おしい。これは自分にも止められないブラックホールのように闇深い気持ち。黒くなったアボカドの皮は熟したサインなのに、私の熟していないアボカドへの気持ちは柔らかくなる気配はまだない。

小谷実由(おたに・みゆ)

1991 年東京生まれ。14 歳からモデルとして活動を始める。自分の好きなものを発信することが誰かの日々の小さなきっかけになることを願いながら、エッセイの執筆、ブランドとのコラボレーションなどにも取り組む。猫と純喫茶が好き。通称・おみゆ。著書に 『隙間時間』『集めずにはいられない』(ループ舎) がある。
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(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)