すばしこい雪哉に苛々していた不審者が、立ちすくむ子どもと、女の背中に顔を向けた。

 ああ! くそ、こっちを向け。

 雪哉は必死になって蹴りを繰り出すが、不審者は、こちらの攻撃を完全に無視してかかった。八咫烏のものとは思えない、吠えるような鳴き声を上げると、三本の足をがむしゃらに動かし、まるで、獲物を見つけた蜘蛛のように、女と子どもへと襲いかかって行く。

 子どもを抱きしめた女が、恐怖にひきつった顔で振り返る。

 やられる、と雪哉が思った、その時だった。

 ――背後から、何か(・・)が頭の上を通り越し、雪哉の顔に一瞬だけ薄い影を差した。

 凄まじい勢いで飛んで来たのは、今度こそ本物の馬だった。

 馬の背中に騎乗していた者が、放たれた矢のような勢いで鞍から飛び出す。そのまま大烏の頭に抱きつき、片手で嘴を鷲摑みにしながら着地したように見えた次の瞬間。

 大烏の巨体が、くるりと宙を舞っていた。

 黒い羽を撒き散らしながら回転した不審者の体が、地響きとともに土の上にひっくり返る。雪哉が我に返った時、不審者は畑に顔を半分埋めるようにして、がっちりと押さえ込まれていた。

 もがこうとする大烏を楽々とねじ伏せるこの男は、あろう事か、飛び込んだ勢いを殺さないまま、頭ごと捻るようにして大烏を投げ飛ばしてしまったのだ。

「怪我はないか?」

 落ち着いた様子で声をかけられた女と子どもは、目の前で起きた事態が信じられないのか、あんぐりと口を開いている。だが、やけに聞き覚えのあるその声に、雪哉は目を見開いた。

 まさかと思いつつ、急いで人形に転身し、男のもとへと走り寄る。

 その顔を確認して、雪哉は大きく息を吞んだ。

「やあ。久しぶりだな、雪哉」

 飄々とした物言いに反する強い眼差しは、忘れたくとも、忘れようのないものだった。

「あなたは――」

 一体、どうしてここに。

 呆然として呟けば、ちらりと、苦笑めいたものが瞳に浮かぶ。

「取りあえず、縄を持って来てくれないか」

2024.07.27(土)