しいて言うならば、テレビボードの裏に五百円玉が落ちているのだが、この男はいつ気づくだろう、そしてそのときはどんなリアクションを見せるだろう……というくらいか。とてもネタにはなりそうにない。
「……にしても、世の中ここまで本のない部屋ばかりだとは思わなかったな」
口を開くと、呼吸をしているあいだ躰はゆっくりと沈む。
俺は再び息を止め、ふうっと浮き上がり、自分の部屋へ戻った。
名枯荘・二〇三号室。表札は「墓森」。
三日ほどパソコンに向かっていたので、どうにも運動不足な気がして大の字で部屋中をスカスカと飛び回ってみた。しかし調子に乗っていたら冷蔵庫のなかへ顔を突っ込んでしまい、低く呻いた。なかはとっくの昔に腐海のようになっている。濡れも汚れもしないのだが、気分のいいものではない。
俺の姿は生前からずっと変わらない。
外出時に一番よく着ていたグレーのローゲージニットと、黒いパンツ。くるぶしソックスにノーブランドの紐なしスニーカー、そして眼鏡……という格好だ。一応、脱ぐこともできるが、気づけばまた身に着けている……というか、出現しているのだ。
類が言うには「一番強いセルフイメージが霊体としての姿になったのだろう」とのことだった。切る暇がなくて眼鏡にかかっていた癖のある黒髪が、これ以上伸びないのはありがたかった。
もしも死んだときの姿で固定されていたのなら、きっとずぶ濡れだったはずだ。
俺はどうやら、この町の北にある断崖絶壁の海で死んだらしいのだから。
「…………」
起き上がり、壁一面にある本棚に目をやった。
どの名作も、もう手に取ることはできない。隅には自分の著作も、文庫化したものを含めて五作、並んでいる。
筆名は「長月響」。
下の名前は本名と同じだ。陰気な名字だけ、変えた。
高校生のころから小説を書き始め、十年近くかけてようやく出せたデビュー作はスマッシュヒットを飛ばした。まだまだ新人だが上々な滑り出しだったと思う。
2024.07.12(金)