幸い……と言っていいのかわからないが、今も依頼は途切れていない。

 パソコンから通知音が鳴った。

 クリーンナップが終了したようだ。再起動をかけて、返信し忘れていた担当編集へのメールを出してから、電子書籍の新刊をチェックし、電源を落とした。

 この机と椅子、デスクトップと付属品一式は、デビュー作の印税で買った物だった。

 俺はこれからたくさんの小説を書くのだと、数十万円ほどかけていい物を揃えたのだ。当時の自分にしては目の飛び出るような値段だったが、いい買い物をしたと思っている。

 その思い入れが、この世との唯一の繋がりになったらしい。

 だが、パソコンという物は十年もしないで古くなる。

 いつかは必ず壊れてしまう。

 小説が、書けなくなってしまう。

 静寂が耳を痛くした。

「類のところに、行くか……」

 俺は窓硝子をすり抜けて、雨上がりの空へ舞い上がった。

 石畳の道をゆく人々の頭を見下ろしながら、文字通りまっすぐ飛んでいくと、年季の入った町屋の連なる通りへ出る。

 土産もの屋、食事処、漆や陶器といった伝統工芸品を扱う店、内装を今ふうにアレンジした喫茶店など……平日の昼間なので、店を覗くのは年配の観光客ばかりだ。

 日本海に面したこの城下町は、令和の今もなお歴史ある佇まいを残している。しっとりと並び建つ暗色の木造は、雨の日も雪の日も賑やかな人々の声に耳をそばだてているかのようだった。

 そんな趣のある通りから、少し奥まった場所に類の店はある。

 目印は「美蔵堂」という柳のような細い筆文字の扁額。

 引き戸をすり抜けてなかへ入ると、暗さに慣れるまで数秒を要した。

 彼は目を凝らした先にある、どっしりとしたマホガニーのカウンターに座っていた。

「やぁ、響さん」

「あぁ」

 栗皮色の前髪の下に覗く、碧い双眸が細められた。

「君が来ると、やっぱり潮の香りがする」

 香り……自分ではわからないが、彼が言うならそうなのだろう。

 美蔵堂は彼が祖父から受け継いだという、小さな古道具屋だった。

2024.07.12(金)