そうそう、投稿用の紙類を折らずに置いておくなら、ここなんだ……。
――ごん。
鈍い音がした。階下からだった。
壁をすり抜けて階段から一階を覗くと、ステップの一番下には、太った若い男性が頭から血を流してうつぶせに倒れていた。
「ああぁぁ、きよひこぉ、きよひこがぁぁ……!」
歯抜けの老婆が床に座り込んで指を差す。
老夫婦の妻が彼女を脇から支えた。
「はい、はい、ここで……亡くなってましたねぇ。可哀そうにねぇ。お義母さん、和室戻ろうか」
リビングから夫が顔を出して、二階を見上げて呟いた。
「やめてくれよ母さん……。もうあの子も成仏してるはずだよ。あぁ、次は本も片付けないとな……、いくら大事にしてたといっても、ずっとあのままじゃあな……」
寂しそうな声は、俺にしか聞こえなかっただろう。
若い男は首をもたげて、不自然な角度で俺を見上げた。血走った片目が、刺すように見上げてくる。
――し……。
幽けき声がした。
彼の右手の中指のペンだこから、鮮やかな色の血が滲んでいた。手書き派か。指も痛かっただろうに。自分はパソコン派だからそこは共感できないが……。
――し……。
「よかったよ」
俺は心から言った。
「君の、詩」
勉強机の引き出しに入っていた、清書済みの。
きっとどこかへ送るつもりだったであろう、詩。
「とてもよかった」
それ以上なにも言えずに目を伏せる。
気づけば男は消えていた。最後に見た顔は、少しだけ穏やかに見えた。
彼があの部屋で重ねていった齢は、孤独は、目指したことのある人間にしか偲ぶことのできない重みなのだと思う。
俺からの報告を聞いた類は、カウンターの椅子で足を組んで紅茶に口をつけた。
「おおかた、遺品の処分を進めるうちに、『文豪のレプリカ万年筆を使っていた』という話が『文豪の万年筆』に縮められてしまったんだろうね。朝になったら、万年筆は庭でお焚き上げすることにしよう」
「あぁ……」
「ありがとう、おかげですっきりしたよ。なにもわからないとやっぱりモヤモヤするからね。まぁ、ちょっと痛い目に遭わされたし、僕は見ず知らずの人のおばけに同情なんかできないけれど」
「そうか」
「物書きにだって共感できない」
カウンターに残ったままの「し」の血文字を見つめる。
ふと思いついて、俺は文字の上から人差し指を滑らせた。
横棒を、二本。
類はちょっと目を瞠って、赤いペンを取り、上からなぞってくれた。
《も》
「『喪』……? ははぁ、よく思いつくね。さすが作家だ」
「ただの言葉遊びだ」
だが、あの青年は笑ってくれるのではないかと思う。
類は両手を合わせて目をつむった。俺も黙祷を捧げる。
目を開けると、天板の赤い文字は綺麗に消えていた。
了
幽霊作家と古物商 黄昏に浮かんだ謎(文春文庫 さ 78-1)
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文藝春秋
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2024.07.12(金)