類はこの万年筆をしばらく観察したいという。売るときに客に説明できるように……。
翌日。昨日のことが気になって早い時間から美蔵堂へ行くと、店に類はいなかった。
なんとなくいやな予感がしてカウンターの上を見ると、メモ用紙に赤い文字が躍っていた。
《か い だ ん》
この町屋の二階と屋根裏は、類の住居になっている。二階はLDKと水回り、屋根裏はベッドルームだ。
「……類?」
店の奥にある階段を見上げ、呼んでみた。
と、暗がりから、ばたんとなにかが落ちてきた。
俺は咄嗟に受け止めようと両手を伸ばしたが、落ちてきた彼は俺の躰をすり抜けていった。霊なのだから当然こうなる。風圧が躰のなかを走り、背後で痛々しい音が響いた。
一階の床に転がった類は、おでこを押さえて躰を起こした。
「大丈夫か?」
「たた……。おかしいな……急に足を踏み外した」
「呪い……か?」と思わずつぶやく。
「呪い?」
俺はメモ用紙を彼に見せようと手を伸ばしたが、カウンターを見て硬直する。
天板の真ん中には、大きな血文字が直接書かれていた。
《し》
先ほどは絶対になかった……のに。
さすがに頬が引き攣った。
だが類は「なるほど」と静かにそれを見下ろすのみだった。
観光名所として名高い、池のある広い公園を漂いながら一人考えていた。
ゆび。かいだん。し。
思い出しているうちに、確かめたいことに気がつく。
公園からふうっと一息に飛び上がって、例の文豪の記念館へと向かった。チケット売り場を素通りし、展示ケースのなかにまで入っていく。
あった。手書きの生原稿。
「筆跡が違うんだよなぁ……」
横線は水平に、升目のノートなど使ったことのない昔の人らしい、伸びやかな字が並んでいた。展示資料の写真のなかの彼は、穏やかな顔をしている。
さらに、俺はお土産コーナーで見つけてしまったのだ。
その文豪が愛用していた、今はなき文具メーカーの万年筆を再現したレプリカがあったのだ。数万円もするそれは、滅多に売れないのだろう、棚の隅に二箱だけ飾られて、ひっそりと埃を被っていた。
2024.07.12(金)