それは俺と類が出会って間もないころに交わした口約束だった。

 類はキャップを開けて、手近にあったメモ用紙へペン先を滑らせた。が、紙には細い跡が残るのみ。次に彼はペン軸をひねって、さっと分解する。

「この通り、インクは入っていない。なのにこの万年筆、目を離すと落書きをするらしいんだ」

「落書き?」

「ああ、紙があれば紙に、なければその辺の壁や床に……血のような赤でね」

 背筋にすっと緊張が走る。俺は類が元に戻した万年筆を見つめた。彼の言った通り、旧くは見えないが、細かな傷や擦れからよく使い込まれた物のような気がした。

「そういえば、その文豪は万年筆を握っている白黒写真が有名だな」

「そうなのかい?」

「ネットで検索すれば出てくる」

 彼は「どこに置いたかな」と一瞬迷うようなそぶりを見せたあと、事務用品の隙間に置いてあったスマホを引っ張り出した。類はデジタル機器は人並みに扱えるが、さほど必要としていないのか触っているところはあまり見たことがない。俺は宙に浮かんで斜め後ろから画面を覗く。

「あぁ、この写真だね。うーん、似てはいるけど……ん?」

 類が顔を上げる。カウンターの上の万年筆のキャップが外れていた。

 傍らのメモ用紙には、鮮やかな赤い文字。

《ゆ び》

 角ばった右上がりの不気味な文字だった。

 類はメモ用紙を掴んで卓上のランプにかざす。見ているあいだに、インクが乾いて照りを失っていった。

「指……?」

 俺が呟き、類がそのメモ用紙を何気なく左手で捲ったそのとき、彼は「いっ!」と小さく声を漏らした。

「――切った……」

 彼の指先にできた一筋の傷は、薄灯りのなかで細い線を描いていた。

 類は「壁や商品に落書きされると困るから」と、万年筆をメモ用紙と一緒にカウンターの上に置いておくことにした。

 ちなみにこの店では、筆記具は鉛筆しか使ってはいけないという決まりがある。美術館と一緒だ。数は少ないが絵画や掛け軸も置いているので、消しゴムで消せない汚れをつける可能性のあるものは、原則使用禁止なのだ。

2024.07.12(金)