この記事の連載

磯田道史が「私一人ではわからない日本史の謎」について、その道の達人と日本史の論賛をした対話集が『磯田道史と日本史を語ろう』だ。磯田さんが「読者諸氏と、この至福の時間の雰囲気を、この書物でともにしたい」と話す同書より、徳川宗家第19代当主と、家康の生き残り戦略、組織作り、人生観を語り合った対談の一部を抜粋して紹介する。


家康の女性観とは?

徳川 そもそも家康の人生は、どん底からのスタートでしたね。母・於大(おだい)と三歳で生き別れ、父・広忠とは八歳で死別しています。

磯田 家臣たちからの信頼は厚かったものの、家庭の面では大変に苦労しましたね。家康は、今川家での人質時代に今川の親戚である築山(つきやま)殿(瀬名)を正室とします。大河ドラマでは有村架純さんが演じていますが、織田との同盟によって、彼女との関係は修復不可能になってしまいます。

徳川 この経験が辛すぎたのか、家康にはその後、色恋の匂いがあまりしない。そこが今回の大河では盛り上がりに欠けるのではないかと心配しています(笑)。

磯田 どうなりますかね(笑)。

徳川 今回の大河では母・於大がとても強くて、今風でしたね。家康と女性との関係では、秀吉の正室だった北政所と仲が良かったと言われることがありますけど、あれは政治的な関係に過ぎないですし。家康の女性観については、むしろ磯田さんにお伺いしたいところです。

磯田 若き日、妻子と過ごした駿河での幸せな時間は、ずっと死ぬまで想っていたと思います。その後の家康は、新しい占領地のお嬢さんを次々と側室にします。それも、確実に子どもが欲しいから、出産経験のある女性をしばしば選ぶ。彼女たちから新しい占領地の内情を聞き出す目的もあったのでしょう。とにかく、女性の選び方が実利的になっていきました。

徳川 政治や家が優先されて、本人の女性の好みは全然見えてこないですね。

磯田 それでも、気働きのある女性は好きだったようです。関ヶ原の合戦のとき、家康が「鎧を着る」となったら周りの女性たちが気配を察し合って、さっと鎧を着せたという目撃談が、家康の侍医・板坂卜斎の記録に残っています。家康が血判を押すときには、そばにいる女性が自分の指先を切り、その滴った血を使っていたという俗説もある。真偽はともかく、そんな噂が出るほど、家康は女性にとっても「この人になにかしてあげたい」と思わせる殿様だったのでしょう。

強みは「好奇心」

磯田 ここまで家康の人物像について話してきましたが、さらに「弱い家康」がなぜ天下人になれたのかについて考えたいと思います。

 私は、キーワードの一つは「好奇心」だと思います。保守的なイメージのある家康ですが、実は好奇心がすごい。さらにその好奇心を、しっかり自分のために活用できたから滅びなかった。

 例えば、天正2(1574)年、浜松の浜辺に明の船が漂着したことがありました。これを聞きつけた家康は、船に乗っていた中国人をすぐに呼び寄せ、銭と糸の貿易を始めた。家康が武田軍に三方ヶ原の戦いで大敗を喫して、まだ一年ちょっとしか経っていない時期です。中国人は、浜松で当時の先端医療を広めました。家康自身、背中にできた瘤(こぶ)を外科的に切除しています。諸説ありますが、執刀医は中国人だとする史料も残っています。

2024.02.29(木)
文=磯田道史