この記事の連載
- 『磯田道史と日本史を語ろう』より #1
- 『磯田道史と日本史を語ろう』より #2
置かれたところで咲くことができた理由
徳川 保守的でないから「気付き」もある。「関東平野と東北地方を開拓すれば、外に攻めていかなくてもいいんじゃないか」と気付くことが出来たのも家康。これは信長や秀吉と決定的に違います。
当時の江戸は、京都からは「蛮夷(ばんい)のすむような僻遠(へきえん)の土地」と認識されていましたから。それでも家康は東国の可能性に気付いていたから、江戸に入ることにも前向きだった。
磯田 「徳川四天王」の一人、本多忠勝あたりは、「あんなところに行ったら、天下を争えなくなる。左遷だ」と相当に不平を漏らしたようですね。でも、『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラー本がありましたが、家康が東国でやったことはまさにこれ。中世前期は、ほったらかしの農業も多かった。土地が痩せると、別の田んぼや畑を耕し、そこが水害にあったら、また他の田畑へ移る感じです。一方、家康は与えられた東国で治水をやり、運河を掘り、田畑を開発して、生産を高めていった。そうやって置かれたところで咲くことができた。
徳川 そこで鍵になったのが、旧武田の家臣団でした。彼らは、甲信の山奥で大規模な土木事業を行なってきた経験があるので、それを関東でも活かすことができた。この役割は大きかったはずです。
磯田 軍事力の側面でも、江戸を選んだのは合理的でした。江戸に行く前の徳川の石高は、だいたい150万石。江戸に行けば、そこに100万石が加わることになり、これは非常にありがたい。250万石というと、当時の「百石四人役(ひゃっこくよにんやく)」で動員できる兵力で言えば10万に達します。かりに国元に2万の兵を置いておくとしても、8万で外に攻めていける。当時としては非常に強力で、その規模の兵力を持てば滅ぼされることはない。
徳川 家康が保守的で、東海地方にこだわって留まっていたとしたら、関東には豊臣家に忠実な家臣が入っていたかもしれない。となると、家康は東と西の両側から挟み撃ちにされてしまう。東国に行くことで、生存の確率がグンと高まったわけです。
磯田 好奇心旺盛で、保守的でない家康らしい気付きですね。
徳川家広
1965年生まれ。徳川宗家19代目当主。徳川記念財団理事長。慶應大学卒業後、ミシガン大、コロンビア大の大学院で修士号取得。著書に『自分を守る経済学』、訳書に『ソロスは警告する』ほか多数。
磯田道史
1970年岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。国際日本文化研究センター教授。著書に『徳川家康 弱者の戦略』『感染症の日本史』(ともに文春新書)、『無私の日本人』(文春文庫)、『日本史を暴く』(中公新書)、『武士の家計簿』(新潮新書)、『近世大名家臣団の社会構造』(文春学藝ライブラリー)など多数。
磯田道史と日本史を語ろう(文春新書 1438)
定価 990円(税込)
文藝春秋
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)
(初出:「徳川家康を暴く 」『文藝春秋』2023年4月号)
2024.02.29(木)
文=磯田道史