「若き日の家康」は何を考え、何を学んで天下人となったのかを論じた、国際日本文化研究センター教授・磯田道史氏による「わが徳川家康論」(「文藝春秋」2022年11月号)を一部転載します。

はじめから天下取りの意欲を持っていたとは……

 2023年のNHK大河ドラマは『どうする家康』。主人公は徳川家康です。戦国の世を終わらせ、長い平和をもたらした家康の人間味には、私も日本史の研究者として興味があり、4年ほど、彼の旧領であった浜松に移住してみて、その生涯の細部を調べたほどです。

 これまでにも多くの小説家、歴史家が家康の生涯を描いていますが、そうした従来の家康像、ことに若き日の家康の描き方には、あるパターンが見られます。それは「天下人」になった偉人・家康の萌芽を少年期、青年期に見出す、というものです。ゴールから逆算する人物論です。

 たとえば今川義元に人質に取られていた少年時代、今川の屋敷で新年の儀が行われていた際、10歳の家康が少しも臆せず、さっと庭先に立って、立小便をした。それを見た周りの人々が「さすがは三河を席巻した松平清康の孫だ」とその胆力に驚嘆した、といった逸話を紹介して、家康の非凡さを強調するような話です。

家の存続だけで頭がいっぱい?

 しかし、その実像はどうだったのでしょうか。膨大な史料を読むにつれ、私には、家康という人は、ひょっとすると戦国大名をやらされたその運命自体が苦痛だったのでは、とさえ思えるのです。ましてや、はじめから天下取りの意欲を持っていたとは思えません。

 なぜか。それは、家康が生まれた三河という地が、地政学的に非常に過酷な環境にあったからです。いつ滅びてもおかしくないくらい危うい状況に置かれた小国に、家康は生まれました。天下取りどころか、家の再興、存続を考えるだけで頭がいっぱいだったことでしょう。

 そうした生育環境で、家康が考えたこと、学んだことは何だったのか。そして、その経験は「天下人」となるうえで、どのような影響を与えたのか。それを知るためにも、「若き日の家康」にきちんと光をあててみたい。そう考えて、いま、家康の前半生を描く仕事に取り組んでいます。

2022.10.15(土)
文=磯田道史